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【 芸術とは何か 】



我々が求めているのは芸術か、それとも感動か・・・

 この問いは単純に考えて、一応の答えを求めることが可能である。 我々は感動を求めているのであり、芸術を求めている訳ではない。我々が何か行動を起こすのは 報酬のためであり、芸術は感動を得るための手段であると。

それでもなお考えなければならないのは、我々が芸術というものに固執している理由である。
感動が欲しいなら薬物を用いても構わない。なぜ我々はそれを良しとしないのか。
その理由についてである。

ひとつ忠告しておこう。
現在、麻薬と呼ばれるものが法的に規制され「悪」のイメージを孕んでいるのは、 それが人の精神に思わぬ副作用を生じさせて法に触れる行為を誘発する事がある為である。
法に触れるか否かだけが問題になっているのであり、精神に与える悪影響、 アイデンティティの危機、人間性の崩壊、神への冒涜、などなど数多の批判も存在するが、 それらは全て感情論に過ぎない。
向精神薬は治療という目的がある場合に限り肯定されている。
精神の治療とは何か、その意味をもう少し考えてみるべきである。
もし、感動を得るために存在する薬物が社会的悪を生じさせることが無いのであれば それは決して否定されるものではない。
音楽鑑賞にも映画鑑賞にも感動以外の副作用はある。意識されずに精神に与える影響、 後遺症も存在する。どんな事にでも望んでいた効果以外の変化が何かしら生じるものであり、 程度の差こそあれ、それが害であるか益であるかを判断するための絶対的な基準はどこにもない。
 これは極論ではない。生物学的に有益であるか害悪であるかということにすら絶対的な基準はない。 だが、社会的には絶対的な基準がいくつか存在し、それが常識とか言われているのであるが、 そんな人の価値観なんてものは時代の変化に伴って大きく変わり得るものであり、 こと倫理問題に関してはそれを支える理論が存在しないが為に時代が変わればすぐにでも揺れ動くものである。
それゆえに、私が言うような薬物が社会に認知され、 さらには芸術作品として扱われるようになることだってあるかもしれないのである。
 我々はもう少し考えてみなければならない。
その薬は映像や音楽によってもたらされる以上の感動を提供してくれるかもしれない。
いや、感動を与えるという点において薬物以上に効果的なものは無いかもしれない。

 通常、芸術鑑賞によってもたらされる感動は、回を追うごとに減少してゆくものである。 同じ作品をくり返し堪能してみても、一番最初の感動と同等のものはもう手に入らない。
それは以前の体験が情報として記憶され蓄えられ、人に未来を予測させるからである。
蓄えた情報の量が増せばそれだけ新たな刺激は減少する。 それは生物である肉体が外界の刺激に対してあらかじめ対処するためである。 完全に予測された未来には何の感慨も無い。
 しかし、薬物ならばその点を克服することが出来るかもしれないのである。 それは人が何かに感動する、そのメカニズムそのものに作用することが出来るからである。 これによって、永続的に最初の感動と同等のものを享受し続けることが可能になるかもしれない。
たった一錠の薬さえあれば、いつでも最高の感動を味わうことができ、 そして弊害が取りざたされることも無い――そんな薬が作り出されるかもしれない。 その可能性は充分にある。
だとすればそれは、じゅうぶんに芸術作品として機能するだろう。
 こういうことを書くと、そんなものは極論だ、と言って切り捨てる者達がいる。 だが私は考えるための土台を提示しているだけである。 実際の問題として、そういう薬を作ることが可能かどうか、 また可能だとしてそれが社会に広く出回るかどうか、そこはさしたる問題ではない。
脳死問題しかり、科学技術が新たな状況を作り上げるまで、 そうしたことは問題にされていなかった。誰もそんなことが問題になるとは思ってもみず、 真剣に考えてはいなかった。だが問題はいつの時代にも存在していたのである。
 私は文化が発展するということは、絶対的な価値観が薄れていくことでもあると考える。 それの契機となるのは何も脳死のように科学技術によって実際問題として顕在化するのを待つ必要は無い。 人々がそれと気付かず通り過ぎているだけで、今はまだ顕在化していないだけの問題が数多く存在する。 単純な二元論で割りきって切り捨てられた問題や、 二元論では語れぬ世界だとして語られることも無かった問題がそこら中に存在するのである。 ゆえに我々はそうした問題に直面したと仮定して考えなければならない。 そうして初めて普段切り捨てられていたことに目がいくのである。
そしてここで提示している問題に立ち返る。
もし・・・ もし、そのような薬物が存在したならば、我々はいったい何を思うであろうかと。

私はこう考える。

「果たして自分が望んでいたのはこんな事であったのか・・・
 感動を得ることだけが目的で その先はないのだろうか・・・
 なぜ私は感動を求めるのだろうか・・・ 
 なぜ求めなければならないのだろうか・・・」

とりあえず言っておくが、これは現実問題である。

冒頭で述べた、芸術か感動か、という問題には実はいくつかの側面がある。 芸術とだけ書いていたのだが、そこには芸術家にとっての芸術(活動)と その他の人間にとっての芸術(作品)の二つの意味が存在する。
ひとつ誤解の無いように言っておくが、芸術家は活動を求めているのであって作品を求めているわけではない。 観客は作品を求めているのであって活動を求めているわけではない。
両者ともにそれらの行動に駆り立てているものは一見、どちらも感動を得る為であると考えることが出来そうだが、 実は両者には大きな違いがあるのである。
それは、 なぜ芸術家は他人の作品を見るだけで満足しないのか 、という点である。
ここが事の本質である。

 変な薬の話を持ち出したのもそのためである。
作品を、感動を求めているだけの者は薬に手を出せばいい。それで望みの物は手に入る。 詭弁を用いて自分をごまかす必要は無い。だが芸術家はそれを良しとしない。
大抵の芸術家は「作品は決して完成しない」ということを悟っている。 最終到達地点なんてものが実際に存在するかどうかは知らない、だがそれがあると仮定して、 芸術家が己の表現したいものが完全な形で表現できたなら、そこで筆を置くか?
完璧な感動を与えてくれる薬が目の前にあったなら筆を捨てるのか?
それはつまり先にも書いた「果たして自分が求めていたのはこんなことだったのか」という問いに対し、 「所詮そんなものである」と自分を納得させるかどうかである。 納得してしまえばそれ以上の物はもはや存在しなくなる。ならば我々の存在理由もそれまでだ。
感動した、満足した、はい終わり。
それはつまり安寧である。芸術家はそれを良しとしない。
芸術家は感動ではなく、芸術を求める。安寧からの逸脱を求めているのである。
抗うこと 、それが芸術である。
芸術家が皆何かしら主張しているのはその為である。抗うことの無い者を芸術家とは呼ばない。
芸術家は彼らのような人間に対し、皮肉をこめて「職人」と呼ぶのである。


芸術とは抗うこと。唯それだけなのである。
それゆえ、それだけではない筈だと否定するのもまた芸術であろう。 だが、当然それだけでは何も示さない、その先に何があるか見えてはいない。 当面はそれを探すこともまた芸術であろう。 目的の探求それ自身目的であり手段である。

芸術もまた踊る。 これが私の芸術論である。



’02.10.7

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