【 そして幕間に忘却を得る 】
我々は常に自分自身に問わねばならない
もし皆がそうしたら いったい
どのようなことになるだろうかと
―― Jean-Paul Sartre ――
なぜ、価値観は共有されないのか。 ずっと、それを疑問に思っていた。
きっかけはおそらく、幼少期に見たピカソの『ゲルニカ』だったと思う。
あるいはゴッホの作品のどれかだったかもしれない。どちらを先に見たかは憶えていない。
ただ、皆が褒め称えるそれらの作品の価値が理解できず、えらく悩まさせられたのを憶えている。
何が良いのだろうか、なぜ自分にはその良さが判らないのだろうかと。
歳月は、世界と私とのあいだに様々な接点をもたらしはしたが、違和感は増長されるばかりだった。
そして私はいつしか、普遍性というものに固執するようになっていた。
普遍なる美、普遍なる価値、全ての物事に共有される本質的な何かを追い求めるようになっていた。
やがて、何も知らずに踏み入れた芸術の世界において、いくつかの疑問はひとまずの解消をみた。芸術という行為がはらむ残酷な矛盾、美を追究しそれを表現しようとする者が直面する無情な現実のさきに答えは訪れた。
ひとつ目は価値の意味。美的価値の正体を探る過程において、私は最初にいくつかの価値の種類を理解した。歴史的価値や希少価値といった知的価値と、プロパガンダによって築き上げられた空虚な、消耗品としての商業的価値の存在である。 そうして理解されたいくつかの存在を、私はもはや不要の物として切捨てていった。
私が求めていたのはそこには無い。だが、それを知るのも時間の問題だった。
我々表現する者達は皆、表現する過程において己自身と向き合うことを知る。
カンバスに投影されるのは全て己の中の妄想であり、それは鏡のごとく己の前に立ち塞がって、見えている世界と、見たいと願う世界の差異を突きつける。美を探究するがゆえに外界にたいして向けられていた目は、いつしか美を感じている己自身へと向けられ、そして我々は美の正体を思い知らされる。美は世界の中にあるのではない、それは己の心が生み出した独善的な主観に過ぎないのだと。
それを知り、しだいに我々の心は凍りつく。なぜならば、知ることと感じることは両立しないからである。何かに心動かされている己自身の姿をつぶさに眺めながら、感動している心を持続させることなど到底不可能なことだからである。
追い求めたがゆえに知り、知ってしまったがゆえに失われ、失うがゆえに我々は更なるものを追い求める。その倒錯した構図の上に、知識ばかりが積み上げられてゆく。
そうして物事の構造がようやく見えてきたころに、私は、前にも増して違和感が高められていることに気が付いた。
物事の構造を知り、私は当然と思える論法、当然と思えるひとつの結論を手にしたと感じ、そこにひとつの普遍性を見た。だが、普遍であるものがなぜ共有されないのかが判らない。いたるところに存在する奇異な言説を前にして、私の答えは間違っていたのだろうかという疑念が長らくのあいだ付きまとって離れなかった。
だが、その違和感も次第に霧散していった。
それは、私が違和感を覚える奇異な言説の大半が、事実にそぐわない信念の上に築かれたものであることを知ったからである。だが、それでもまだ私には彼らがなぜ気付かないのかが判らない。明白な誤りを正すことなく、目を伏せ続ける者達の感情や考え方がわからない。彼らが何を知らず、どこで考え違いをしているかが見えてこない。
いくら知識を積み上げようとも、そうした違和感は高まるばかりであった。
それゆえ私は論理を操ることにした。主観の違いを生み出しているものが、知っているか否かによるものであるかを見極めるためである。
抽象的な概念を排すことで解釈の余地を無くし、一切の誤謬を生み出さない普遍なる表現を追い求めた。たとえ客観的事実など成立しえずとも、誰もが理解し、誰もが正しいと思う言葉の中に、共有されうる普遍なる価値観が有るのではないだろうかと考えた。
私のその企ては、それなりに理に適ったものではあっただろう。私が記した論考のうちいくつかはおそらく否定され得ない類の物である。普遍性という点だけを見れば、ある程度のレベルには達しているだろう。
だが、私がその先に見出したのは、さらなる違和感と残酷な現実だった。
我々は一介の生物に過ぎない、その事実がまたもや壁となって立ち塞がっている。
生物多様性 の意味、その存在理由。 そして私は冒頭に記したサルトルの言葉を思い出す。
もし皆がそのようにしたら、一体どのような事になるだろうかと。
そう、主観の隔たりは決して埋まることは無い。価値観の差異は存在し続け、どこまでもその差を広げ続けねばならないものなのである。それが、我々が生物であるがゆえに有す、安全策としての多様性である。話せばわかるなど、有り得ないことなのだ。どれほどに知識が敷延されようとも、いくら正しい論法とひとつの解を知らしめたとしても、決して主観の隔たりは埋まらない。多様性という名の強固な壁は崩れない。
私はそれをこの目で見、体で感じ、理解した。
もはや違和感は無くならない。
いかなる力によってそれがなされるのかが判らない。
人々は幕間に忘却を得る。 そして何事も無かったかのように繰り返す。
’03.6.12