第一章 争いの理由


平和という観念は、深く人類の心を捉えて離さない。 だが果たして人々はどれほど本気でそれを希求しているのだろうか。

戦乱の渦中にある当事者たちは皆一様にこう語る。「彼らがいなくならない限り、我々に平和は訪れない」。そしてそうした馬鹿げた暴力の連鎖を断とうと奮闘する平和主義者達はこう語る。 「戦争がなくならない限り、我々に平和は訪れない」と。

そこにはまったく同じ論法で、ただ立場の違いだけがある。勧善懲悪、善を行い悪を退ける、世界が平和でありますように―― それで何かが変わるのならばヒトは今頃ばかげた歴史を繰り返してなどいない。


人はつねに何かしらの問題を前にして、何が良いか、どう行動するべきかの判断を迫られる。

そして、我々の判断はいつも独りひとり異なり、また、時と場合によりけりである。この世界には「良」か「悪」かを判定する絶対的な基準はどこにも無い。それでも我々は常に何を良しとするべきかの判断を迫られる。行動はつねに「取る」か「取らない」かの二者択一であり、どちらかが良くてどちらかが悪いという判断を下さない限り、人はいっさい身動きが取れなくなってしまう。だから我々は、何が良いのかが分からなくても何を選択することが自分にとって有益なのか、害悪なのかを確実に判断しなければならない。そうした判断を支えているのは理屈や理論などではない。好き嫌いという感情である。

赤子が乳を飲むために善悪の定義など必要ない。

この世界には絶対に正しい判断など存在せず、人間は好き嫌いという感情無しには生きられない。そして、その好き嫌いの感情が「善悪」や「正誤」という二元論を生む。答えを先に言ってしまえば、これが世に争いの生じる根本的な理由である。


この一連の論考の始まりとして、この「善悪」や「正誤」とは何であるかをもう少し明確にしておこうと思う。いくら我々が理性的に振舞う生物であるのだとしても、物事の良し悪しの判断こそが我々の行動の基本なのだから。


1. 正義の中身

人は常に今よりも良い状態が訪れることを希求する。我々の行為は、その判断をくだした時点において、自分にとっては常に「良」であり「正」であり、好き嫌いのうち「好き」という感情によって肯定された行為であろう。人の行為は全てその「好き」という感情によってのみ裏打ちされたものであり、これは本質的に他人が口出ししたり、どちらが正しいかを言い争ったりできるものではない。だが、世間一般においてそれが通用しないのは、それでは社会が成り立たないからである。



何が好きで何が嫌いなのか、皆それぞれがその感情と判断に凝り固まってしまえば、結果として自分も含め多くの者たちが「嫌がる」状況を招いてしまう。我々は集団と共に生きざるをえないのであり、個人の感情と判断のみで生を繋げられるわけではない。

それゆえ我々はコミュニケーションによって他者と情報を分かち合い、他者が何を好み、自分が何を好み、それぞれがその判断によってどのような利益を享受する事ができると考えているのかを理解し合う。そして時には、利益に結びつくと信じていた自分の判断が間違いであったと気付くこともある。

だがその間違っていたという「正誤」の判断も、本当に正しいかどうかということは、全てを知り尽くす者でもない限り分かりえないことである。人が行う正誤の判断というものは、自分の知っている限りの知識の中でどちらを信じたほうが良いか、より現実的かを判断することなのであり、信じるか信じないか、正か誤かの判断は人それぞれである。

しばしば耳にする「信じたくない」という言葉が物語っているように、「正誤」の判断は利害と密接な関係にあり、これも好き嫌いの感情による判断だと言っていい。


基本的に人は皆、そうやって偏狭な現実を生きている。限られた時間の中で人が学びうることなど、ほんのわずかな事だけであり、見知らぬ世界は数限りない。それでも我々独りひとりは、自分が知っている限りの知識を寄せ集め、その記憶によって造り上げられた世界を唯一の現実であると認識して生きていくしかない。だから正しいと思っていたことが間違っていると言われたり、前後で矛盾するようなことを教えられたりすると、人は何を信じていいか分からなくなって、ひどく不安になってしまう。それは、自分が正しいと思っていた事実認識が揺らぐということが、その判断を支えていた「好き嫌い」という感情と「利害」の結びつきが揺らぐことだからであり、好きという感情によって選んだ行動が、間違った事実認識によって損害に結びついてしまうのであれば、結果として「好き」と「嫌い」は倒錯してしまうからである。利益に結びつくと信じているからこそ、人は何かを好きになれるのであり、損害に結びつくと信じているからこそ何かを嫌いになれるのである。だから、その繋がりが否定されることは、好き嫌いの感情が否定されることと同じなのである。

自分の好き嫌いという感情と行動が、結果として利益となるか損害となるのかが分からない、そうした先の見えない状況こそが人を不安にさせる。そして自分の好き嫌いの感情が信頼できないという状況は、その感情の上で生きることしかできない我々にとって、自分らしさ、アイデンティティーが見えなくなることにも等しい事態だと言っていい。


人間はそんな状況に耐えられるものではない。


だから、これだけは絶対に信じていいよと言ってくれる何かに寄りかかる事ができれば、人はその不安を解消できる。その何かが絶対的であるならば、その何かを好きになることで自分という存在を守り通すことができる。何を良しとして行動するのかという、その「何か」に当てはめる事柄を確定し、絶対に変わりえない行動の指針として守り通すこと、それが不安の解消となるのであり、アイデンティティーの確立となるのである。


だがこの世界には絶対に正しいと断言できる判断など成立しえないのである。それゆえ、アイデンティティーを確立するということ、絶対的な何かにしがみついて不安を解消しようとすることが、同時に偏狭さに結びついてゆく。

絶対に正しい判断であると主張する、それが一般に「正義」と呼ばれる信仰なのであり、その信仰は、宗教、主義思想、倫理道徳、といった形をとって世に現われる。

不安から逃れ、信仰に安住することを決めた者たちは、同じ信仰、ひとつの行動理念を他者と共有することで、そして常にそれを掲げ声高に叫ぶことでその絶対性を自ら保証しようとする。

正義がときに排他的で他者に信仰を強要するのは、その正義に異を唱える者が居なくなれば、たしかにそれは絶対的なものに成ることができるからである。見比べるものが無くなれば正誤の疑いを差し挟む余地も生まれない。

唯一絶対の正義を確立し、それを全人類に共有可能なアイデンティティーとすることができるのであれば、確かにひとつの理想郷がそこに誕生するかもしれない。だが、それが確実に不可能であるのは、善悪・利害得失の判断が根本的に我々独りひとりの好き嫌いの感情が表れたものだからであり、その好き嫌いを統一することは不可能だからである。

何を利益と考えて追い求めるのかは、独りひとり違っていて当然である。

そしてまた、現実認識が変われば好き嫌いの対象も移ってゆくことは当然である。


だが、人間という存在は性質上、その事実を許容するようにはできていない。


その事実を許容できないのは不安ゆえであり、正義という信仰に寄りかかることで好き嫌いという善悪二元論を肯定しようとする、我々独りひとりのアイデンティティー不在がもたらす不安ゆえである。これが正義の中身であり、これが争乱の原因であることは、もう分かるだろう。正義と正義の衝突こそが争いである。争い自体は人間の性質上、回避不可能であるし、また回避する事で利益が生じるとも限らない。何を利益と見るかは個人的な好き嫌いでしかないのであり、その利害判断と善悪二元論に絶対性を主張することは偏狭さでしかない。


ただ、社会全体を主体として見た場合のみ、決定的とも思える善悪の判定基準が生まれる事もまた事実である。


過去いく度も正義の名において行われてきた戦争、革命、テロ、犯罪、立法、裁判……それら偏狭な正義信奉者の幸福追求と、その他大勢の幸福追求、その両者を秤にかけて善悪を問う基準は何だったのか。そこに論理は成立不可能であり、有るのはただ感情論の多数決だけである。好き嫌いの感情のどちら側に、より多くの人間が共感するか、大多数の意見の平均値が「好き・嫌い」のどちらに傾くか、唯それだけであり、そしてそれこそが社会的な基準である。独裁者による善悪の独断も民意から外れ過ぎれば叩かれる。それに独裁者はよく現実を見誤る。だから結局は平均的なところが好まれるのであり、権力が分散され、民主主義が採用される社会へと移行してきた歴史は必然である。多数派の行った決定が結果として好ましくないものであったと考えられたなら、多数派はやがて少数派に変わる。我々の歴史は、そうした判断ミスとされた思想の蓄積であり、論法の誤りを正す論法の蓄積である。そして人々は歴史の善悪を問い、あやまちを繰り返さないためにはどうすべきかを考える。だが、その善悪の判定に論理的根拠を与えることは不可能である。

極例をあげれば、民族浄化(エスニック・クレンジング)(※注)、ホロコースト、ジェノサイド、猟奇殺人にしても、それらの行為が善か悪か、そしてそれらが歴史の進展にどのような影響を及ぼし利益と損害のどちらをもたらすか、それを判定するのは理論ではないし、そのような理論は成立しない。理論によって可能なのは現実認識と未来予測のために用いている論法をゆがめ改変することだけであり、利害・善悪・正誤、それらを判定するのは好き嫌いの感情である。


そうした感情の平均値こそが、社会全体としての好き嫌いの感情を肯定し、社会的な善悪を判定する基準である。その善悪の判定基準が一定不変のものでは有り得ないことは、歴史を見ればすぐに分かる。殺人も状況しだいでは肯定される。カニバリズム(食人)も文化として存在した。時と場所が違えば善悪観も違う。またそれは単純なプロパガンダでも揺れ動く。だからこそ、その曖昧で捉えどころのない基準をいつの時代も為政者は「世論」と呼び表したのであり、異端者・傍観者はそれを「ステレオタイプ」と呼んできたのである。

世間一般において語られる善悪というのはそういうものである。そこに絶対性など無いのであり、それに従うかどうかは個人の好き嫌いに一任される。好き嫌いの感情こそが我々の行動を規定し、その感情の平均こそが社会全体の基準となる。

そして、それこそが我々の向かう先を方向付けるのである。


次の章ではその感情と争いと世界の仕組みについて述べてゆこう。正義と正義の衝突こそが争いなのであり、その絶対的正義の追及こそが文明の推進力だからである。


ただし、私の述べてきたこれらは、それらしい説明のひとつに過ぎないものである。 何が絶対に正しいのかは誰にもわからない。

だが、この論説を信用するかどうかも独りひとりの好き嫌いの問題にすぎないはずである。そして私がやっている事もまた、正義信仰の説明にそのまま当てはまる。

正しさの絶対性を保証するために声高に叫んでいる、ということである。


この一連の論考において私は、これまで決して公に語られることのなかった歴史の側面をあなたの眼前に描いてゆく。それらの全てはあなた自身が自分の心に問いただし、それが正しいかどうかを判定すればいい。


’03.9.11


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