第一章 争いの理由

2. 倒錯する世界

何かを肯定し何かを否定する、それは独りひとりの利害判断・損得勘定以外の何物でもありえない。だからすべてが同じ論法になってしまう。皆が皆、自分の価値観を肯定しようとして正義を組み立てる。同じ欲求に基づく同じ信仰である。

それゆえ「善を尊ぶ」「正義を行う」といった主張の中身は、自分の好き嫌いの感覚を肯定するだけの感情論、エゴイズムでしかありえない。それが前節で述べた「正義の中身」である。前節では穏やかに書いてきたが、この節では世に争いの絶えぬ理由をもう少し明確に述べていく。

この世界がどういう場所なのか、ここで何が行われているかについてである。




我々はたとえば、腹が減れば食事を取ることを「良し」とする。我々にとって腹が減っている状態は「悪い」状態である。人が何か行動を起こすとき、その行為が「良」であるとして肯定するためには、それ以前に現状が「悪」であることを肯定せねばならない。正義がその正当性を確認するためには常に見比べるための悪が必要だということである。そこに論理は無い。我々が生物であるから我々の体はそういう風にできている。

そう言うしかない。


我々は基本的に対比によって物事の価値を決めている。善悪・利害・正誤・有無、貧富・優劣・苦楽・強弱・貴賤・美醜……など、それら全ての二項対立は対比されてこそ成立するものなのであり、決して片方だけで成立することは無い。善悪とて物の大小の比較とさしたる違いは無い。それは考えてもみれば当然のことである。だがそれでも正義は常に悪の撲滅を謳い、宗教は極楽浄土・理想郷の存在を謳いあげる。それらが気休めに過ぎないことは歴史の語るところである。神仏が実在しようとも実在せずとも、それを信じようとも信じずとも世に悲惨は無くならない。いかに法律が微細にわたって規定されようとも、いかに社会福祉や治安維持が徹底されようとも世に争いはなくならず、犯罪も異常者も消えはしない。

悪の存在しない世界、苦しみの無い世界、それを可能にする方法があるとすれば唯ひとつだけ、現状をあるがまま全て受け入れることである。一切の価値判断を放棄しさえすれば悪も苦も成立しない。当然、相対する概念である善も楽も成立しないのであり、そして我々はいかなる行動も起こしえない。つまり、生物である我々に価値判断の放棄は不可能である。それゆえ善も悪も決して無くならず、ゆえに争いも無くならない。

我々が理想郷に到達することは叶わない。


とても単純な話だ。これは「ゼロサムゲーム」なのである。


全体の収支は「プラスマイナスゼロ」、善行の裏には対比される悪行がある。利益を得る者が出れば損害を被る者が出る。快楽の裏には苦痛が潜む。疲弊があるからこそ癒しを感じることができる。

生物の一生というものは、対比と価値判断に基づいて、より価値のある側に歩み寄ろうとする行為の繰り返しに過ぎない。欲求が生じるゆえに欲求解消へと向かう。空腹ならば飯を食う、それでゲームの収支ゼロ。それが大抵の生物の一生である。

ただ人間の営みには確かに単純なゼロサムゲームとは言えない部分もあるだろう。ヒトだけが奇妙にもここまでの文明文化を築き上げてきた。この点だけをみれば、人の行為が他の生物たちの欲求解消ゲームとは少々異なっているようにも見えるのだが、ヒトと他の生物を大きく隔てている特徴はその「学習能力」の高さ。そしてヒトにおいて他の生物より圧倒的に抜きん出ている点が「未来予測」の能力である。


人間の目には、ああすればこうなるという風に行動の結果が先に見えてしまう。獲得される価値の程度も予見できてしまう。それゆえに単純なゼロサムゲームの繰り返しが破綻するという悲劇がここに生じることとなった。人類の受難の歴史はおそらく、自らの死の運命を理解したこと、人生が繰り返しに過ぎないと感付いたことで始まったのだろう。もし我々がサルのままであったなら、餌場に豊富な食料さえあればそれに満足してそこで一生を終えていただろう。だが人間はそれでは満足しない。それはなぜならば、ヒトは大抵のことならば体が慣れてしまうからである。我々の脳が刺激の繰り返しを学習してしまうからである。


我々は食料が豊富にあればそれを当然の日常として、さらにより良い世界を希求する。かつて幾人もの革命家たちが謳いあげた理想、輝かしき未来像、夢のようなテクノロジー、それらは幾度となく現実社会において実現されてきたが、我々はその現実を当然の日常として今を生き、さらにより良い世界を希求する。産業革命以降、利便性の追求が加速度的に積み重ねられ、現代のような機械文明を築き上げるに至ったのも我々が新たな刺激に対してすぐに慣れてしまったからである。

問題の構図はきわめて単純である。だが厄介なことに少々根が深い。

それは日々繰り返されている政治のことを考えてもみればよい。誰しも瑣末な問題とは関わりのない所で生活したいとは思っているのだろうが、ひとつの問題を片付ければまた別の問題が持ち上がるばかりである。

それは、我々が次から次へと問題点を見つけ出してくるからではない。理想郷を実現するために少しずつ前進しているわけではない。新たな社会問題は我々自身の手によって「創作」されているのであり、それは我々自身が問題の発生を「必要」としているからである。

――我々は決して現在を最良として受け入れることが出来ない。そして我々は今よりも良い状態を求めようとする。だからこそ我々は、より良い世界を構築しようとするたびに排除あるいは改善すべき「悪」の存在をどこかに見出さねばならない。―― これが社会に問題を供給している我々の需要

そして我々はその需要があるたびにある事を行ってきた。そのひとつが何者かに己が身の不遇・不満の原因全てを押し付けて生贄とする行為。すなわち 「スケープゴート」(贖罪の山羊) (※注) を祭り上げる行為である。そしてもうひとつは、好き嫌いの感情に基づく多数決によって異端者を―― 平均値から大きく外れ、嫌悪の対象となる存在を炙り出して排除する行為。すなわち「魔女狩り(※注) である。そしてこれらが我々の社会が採用している異端排除のシステムである。

何のことか分からないだろうからもう少し具体的に記しておこう。

人が常日頃繰り返す善悪の判定、異常と正常の峻別、法という主体無き概念を持ち出して行われる断罪行為、それらすべてが魔女狩りである。法にふれたか否かを基準に善悪を問う、それは正統派か否かをふるいにかける異端審問、魔女裁判でしかありえない。近年に至り異常犯罪なるものが取り沙汰されているが、理解困難な者たちに対して犯罪者・精神障害者という烙印を押して異端な存在として片付けるのは、自分自身を知らぬがゆえである。普通であると自任している人々のあいだにある個体差は「個性」という一言で片付けられているが、それらも遺伝情報の違いや生育環境の違いから生じるものであり、精神障害や犯罪癖を個性と呼んでも、そこになんら矛盾は無い。

判定の基準となるのは理解可能かどうか、平均的かどうか。だから正義を支持するのは感情論による多数決だと言うのである。過去いく度も狂信者の一群が正義を掲げて騒乱を引き起こしてきたが、それを圧殺してきた我々の正義もまた狂信的である。彼らは彼らの幸福のために、我らは我らの幸福のために。だから正義の正体はエゴイズムでしかありえない。平和や人類、地球の未来、何かしら大義名分はあるのだろうが、そんな言葉遊びはもう結構だ。それは己が安心感を得るためのものでしかない。



さて、それでも世の人はこのように反論するかもしれない。

――我々が集団で暮らし社会を形成する以上、絶対に許容されえない価値観がある。たとえば同胞の殺害を推奨するような社会は社会として機能しないのだから。それゆえ我々はそうした行為を悪とみなす。正義が矛盾をはらみ善行に犠牲が伴うこともある。だが我々の社会は「最大多数の最大幸福」を追求するように動いている。多少の問題や矛盾も長い目で見れば、大勢の個人の利益として還元されるのだ――と。

残念ながらそこには間違いがある。

それは、社会と個人の利益は必ずしも一致しているわけではないということである。


一般には社会を成立させているのは個人の集合であるとされ、それが「社会は人の総和である」という言葉で語られもしているのだが、残念ながらそれは違う。社会は「社会の存続」を至上命題として機能しているのであり、そして社会を成立させているのは「個人」ではなく「役職」である。人格者としての独りひとりが集合することによって社会が形成されているわけではない。

それはつまりどういう事か。

たとえば、先天的に優れた身体能力を持つ人物が居たとしよう。その人物は特定の分野において才能を発揮することができ、そして当人もそうすることを望んでいる。現代の技術を駆使すればその人物のクローンを大量に世に送り出す事が可能である。つまり、同じ一芸に秀でた人間ばかりが大量に存在する状態を想定してみようという話である。そこでは、そのクローン人間たちが一様に自分の幸福のために能力を発揮しようと奮闘してみても、残念ながらそれでは我々の言うところの「社会」は成立しないだろう。

あるいは、哲学者を100人ばかり無人島に押し込めたとしよう。そこで彼らが皆自分の望むがまま形而上学的な思弁に耽溺し続けるのならば、そこに社会が成立するはずもない。

何が言いたいか。

王侯貴族、士農工商、穢多非人(不可触賤民)、管理職から平社員まで――今現在、世界を見渡してみて一体どれほどの数の職種・役職が存在するのか不明であるが、奴隷の存在無しに貴族という身分が成立するはずもなく、騎士道・武士道精神だけで社会がまわるはずもない。そして、それらの役職についている者達がみな、自分の価値判断に基づいて望んでそこにいるわけではない。

何が言いたいか。

たとえば、およそ人間が獲得しうる限りで最大の幸福感を味わっているであろう妄想家・被洗脳者・宗教者・麻薬常用者、そうした者たちばかりを集めてみてもそこに社会は成立しない。だが、そこには確かに「個人の幸福」があり、その集団にあって「最大多数の最大幸福」と呼んで差し支えのないものが確かにある。幸福追求というものが基本的人権として保護されるほどに、我々の目指しうる唯一の至上命題であるのならば、盲目さを獲得するために自ら進んで洗脳された狂信者たちのそれ、法悦トリップと呼ばれる状態以上に幸福感にひたれる手段はない。価値判断は対比に基づくと先述したが、その実体はつまり脳内の神経伝達物質とその受容体(レセプター)の結びつきの程度が問題になっているのであり、そのメカニズム自体に作用する限りにおいて対比の関係は破綻する。

薬物使用の場合はその代償として禁断症状に見舞われる事もあるが、慢性的に対比の関係が破綻している状態を「(そう)/(うつ)」と呼び、社会的には病として忌避されている。ゼロサムゲームの文脈で言えばプラス側が「躁」マイナス側が「鬱」である。

このような集団において社会は成立しないし、妄想に耽溺するばかりで栄養補給すら怠るのならやがて滅びることは自明である。だがそれでも彼らは幸福である。


何が言いたいか。


つまり、社会が成立するためには個人の幸福追求を封殺してでも役割分担させることが必要不可欠だということである。だから社会は役職の総和だと言うのである。

もちろん社会というものに実体は無く、社会それ自体が主体となって利益を求めたりするわけではない。人の社会を運営しているのは人であり、社会の構成員である各人が自分の幸福を追求することで社会は回っている。時には目先の幸福追求を諦める事になろうとも各人が損得勘定に基づいて動く事で社会は機能する。個人単位での絶対的正義の追求こそが文明の推進力である。だが、そこには重大な錯覚がある。



我々の価値観は我々のためにあるのではない。順番が逆である。



人はその適応能力の高さゆえに、自分が身を置く環境に適すように自らの価値観を書き換える。朱に交わり赤くなる。システムに身を置いているからこそ、個人の価値観がそれに追随するのである。

「会社組織」に身を置く者でもない限り「自社の利益のために」などという価値判断を持ちえない。「親」という役職にある者でもない限り「我が子のために」という価値判断を持ち得ない。男は男として考え、女は女として考える。首狩り族に生まれた者は首狩り族としてそのアイデンティティーの内に生きる。かつての時代、そして今この世界の各地に「国のために」と死地に赴く者たちが居る。そのような価値観を携えて生まれてきた者など居はしない。だが時代の要請がそのような価値観を持つ人間を必要とした、だから彼らがそこに居る。

歴史認識にしても同様である。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を知る我々であればこそ原爆を脅威に思う。その歴史を知る者でない限りその感情は持ち得ない。未開文明の人々はそのような問題の存在すら知らずに暮らしているだろう。我々がその歴史を教わり育てられたのは、その需要が社会にあったからである。その社会的要請をもたらしたのは「誰か」の正義・損得勘定であって、決して教育される側である「わたし」たちの正義だったわけではない。誰かが望んだがゆえに我々は原爆を脅威に思う人間に育つように教育された、だからこそ我々は原爆を脅威に思いそれを正義として掲げるに至る。


お分かりか?

まず社会に需要があり、供給として我々の価値観が形成されてきたのである。

だから順番が逆だと言うのである。


未開文明の人々の多くが様々な高度文明の弊害に首をかしげ、そのような問題を生み出す社会に暮らすよりは自給自足の生活を選ぶと語るのを聞く。かわって我々は、日々の食料を獲得するために消費する労力を別のことに向け、自然から隔絶された都市を築き上げ、自然と共に生き自然の不条理に身を委ねる事を良しとしない。我々の祖先が都市文明を築き上げるに至った歴史はおそらく必然である。地理条件と歴史が揃えば農耕文明が誕生し、農耕社会の規模増大から予測と統御を旨とする管理社会、都市文明が誕生する事になる。文明には歴史に依拠した発展段階が確かにある。

それでも未開文明の人々が当然とする社会と我々の当然とする社会、その両者のあいだに価値の高低を判定する基準があるわけではない。だがどちらの社会に属す者も大方は己が身を置いている側の社会を肯定し、その上に築かれる生活を守ろうとする。この生活の上にのみ自分の幸福を望めるのだと。我々と彼らの価値観の差異を生み出しているのは、身を置いているシステムの違いだけである。

日常・健常・普通・常識・一般、それらすべて我々が環境から汲み取った平均値に過ぎない。物心ついた時には既に当然として用意されていた環境の中で、我々は自分の日常世界を築き上げてゆく。そして皆それぞれが自分の見知った世界の平均像と照らし合わせて幸福と不幸を語る。そして人は自分の属すシステムの上で、守りたいものを築き上げてゆく。地位身分や自分や家族、それらがいつしか手放せないほどに大事なものとなってゆく。それを守るために掲げる正義もまた様々。権利・義務・責任・愛着・誇りなど、とても使い勝手のよい言葉の数々があるだろう。それを持ち出すことで何かが正当化できるなら、同じ論法であらゆる行為を正当化できるのだ。それらは要するに自分の構築してきた独りよがりな世界を手放せず、いま供給されている利益、システムの恩恵を手放せないというだけのことである。

生物は基本的に、今までうまく維持存続を可能にしていたシステムを放棄することを良しとしないようにできている。新しい環境に飛び込むよりは、慣れ親しんだ環境に留まる方が高い確率で身の安全は保証される。また、自分が属す社会のルールを遵守していれば魔女狩りの対象となるのも避けられる。とても単純な損得勘定である。そしていつしか手段と目的が倒錯しはじめるのだ。


これを「マッチポンプ」と言う。マッチで火をつけてからポンプで水をかけ、自ら起こした火の始末をつける。問題解決が新たな問題の火種となるがやがて火を消すために火を付けるようになる。けれども我々はその手段を手放せない。その目的も手放せない。その理由はすでに述べてきたとおりである。

社会問題は降って湧いてくるわけではない。それは我々自身が創り出しているものだ。 これを端的に表現するならば「自家中毒」あるいは暇つぶし。


それが社会問題の実態である。これを幾度繰り返そうとも問題の構造が変わるわけはない。


ひとつ断っておくが、ここには貧困層における行動様式の一部は含まれていない。貧困というのは都市文明に特有の現象であり、それは格差の上にある。だから未開文明に飢餓はあっても貧困はない。先にも述べた欲求解消のゼロサムゲームにあって、貧困というのは圧倒的な搾取によって慢性的な欲求不満に置かれた状態の事である。ゆえに彼らは現在のシステムを良しとしない。ゆえにルールを侵犯する者が多数排出されることになる。貧困と犯罪の相関は明らかだ。ここで主に取り上げてきたのは、搾取する側が資源の吸い上げによって全体の収支をプラスにしようと奮闘する上で生じる現象についてであった。そして私が問題にしているのは、その価値判断の根本的な仕組みについてである。

貧民とて裕福になれば搾取する側にまわって同じ歴史を歩むだけであろう。


さて、

それでは問題の核心に移るとしよう。ここからが我々の正念場である。先述した社会と個人の利益の不一致、その問題を生み出す根源的な矛盾の構造についてである。



’04.02.13


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