第一章 争いの理由

3. 問題の構造 (1)

本題に入る前に、まずは2つの事件を紹介しておこう。


1978年11月、人民寺院キリスト教会という宗教団体の名を世に知らしめる事件が起きた。教団を調査にきた下院議員を殺害したのちに教祖と900名以上の信徒が集団自殺を行ったのである。この教団は人種や階級による差別をなくし弱者の立場にたつ「愛の共同体」を目指していたのだが、被害意識と外部社会への敵対意識を抱くようになったらしく、集団自殺は「非人間的な世界の状況に抗議する革命的自殺」と意味付けられていた。また1997年3月にも同様の事件が起きている。電脳カルトとも呼ばれた教団ヘヴンズ・ゲートの教祖と信者計39名が集団自殺を行った。こちらはヘールボップ彗星の飛来時期に合わせ天国へ到達しようとして行われた自殺である。彗星の尾に天国行きの宇宙船が隠れていると信じていたらしい。



さて、この節の始まりとしてこの事件について語ったのは他でもない、前節で述べていた問題、社会と個人の利益の不一致という問題を解く鍵となる重大な法則がここに見出されるからである。

彼ら信者の価値観を先導したのは教祖の妄想であり、教団というシステムである。己の信念に殉じた彼らはおそらく幸福であっただろう。集団自殺という手段はさておき彼らがそれを行った理由といえば、平均的な人々となんら変わらぬ幸福追求であったことは確かなことだ。ただそれが異端視されてしまうのは、我々の社会が彼らの用いた手段を採用していないからである。だがそれはなぜなのか。問題の要点はつまり、我々の社会がそうした手段を採用していない理由、そしてそうした手段が非難されている理由である。その理由はとても簡単な事であるのだが、その理由こそが途轍もなく重要な点なのである。

先の教団では、彼らが幸福追求と信じた行為を遂行したことで、結果として教団は自滅した。言い換えるなら、組織の構成員が組織の終焉を助長するような価値観によって組織を形成していたために、この組織は結果として瓦解した。分かり易いように逆の例を引き合いに出そう。

たとえば会社組織に身を置く者であれば、自社の利益を考えるかどうかは個々人が自由に判断すればよいことだ。だが利益追求・維持存続に失敗した会社組織は消え失せることになる。それゆえ自社の消失を良しとしない組織は、自社の利益追求・維持存続の助けとなる人材を必要とし、そうした人材を自ら発掘し育成しようとする。それが組織を維持するための基本。組織の維持存続を助長する価値観によって支えられた組織の方がより長く存続することになる。それゆえ当然ではあるが、より長く存続した組織ほどそのシステムが精妙にできている……

これが、我々の社会の根幹をなす法則である。個々人の幸福がどこにあるのかはひとまず関係が無い。維持存続を至上命題として機能するシステムでなければ次第に世から消えてゆくのである。そしてより長く存続した組織ほど存続のための能力に長けている。 細かな点は後ほど詳述してゆくが、とりあえずこれが前章において述べていたこと――

社会が「社会の存続」を至上命題として機能している理由である。


気付いた者も居るだろうが、上述の説明は進化論と同じ論法によるものである。ヒトがサルと同じ祖先を持つことを明らかにした、ダーウィンの進化論である。そしてこれまでに語ってきた論説も概ね、この世界で起きている事の全てを「自然淘汰」 の表れであると想定した上での考え方である。現代いまだに進化論の考え方は一般化されておらず、世にはまだ人間至上主義や絶対善・絶対悪を掲げる者達が数多くいる。 そして進化論はそうした一般社会にあって、数ある科学理論の中でも特に忌避されがちな考え方である。この先の論説には進化論が密接に関わってくるので少しだけその論理的背景を説明しておこう。


まずこの点を明確にしておかねばならないが、科学も宗教もそれら全ての信仰は論理的整合性という点においては優劣の付けられるものではない。科学に異議を唱える者達の主張は基本的に「そんな筈はない」の一点張りであり、論より証拠という点において科学の側に軍配が上がるのは当然であるが、それでも個人がどの考え方を採用するかは基本的に、個々人の判断する実利的有効性に委ねられるしかないものである。

現実とのつりあいを一切考えずに論理的整合性という点だけを見るのであれば、全ての理論はその根本において同じ論理構造を持っている。それは、絶対善を信奉する者達の正義である 「善は善であり、それ以外の説明はない」という主張と同じ、同語反復による存在証明の構造である。たとえば、物理世界における安定状態がなぜそれで安定なのか、その理由を説明することはできない。 正と負とが結びついてゼロとなった時にこの世界はなぜかしら安定するのである。だから「安定は安定である」と言うしかない。 そもそも「安定」とは何なのか誰にも答えられはしない。進化論もこれと同等である。

生存確率を高める能力を持つものは生存確率が高い」という当然過ぎる進化論の論法は、「善は善」「1=1」それと同じ単純な同語反復に基づいている。このような論法をトートロジーと言う。我々が正義と呼び何かを正当化しようとする論理は、この同語反復の論理構造から決して抜け出せない。それは、我々の「認識」という行為がその構造に依拠するものでしかありえないからである。(※注)

ともかく正義の論理的整合性に優劣があるわけでは無い。だがここで少々危険な論法 を用いるが――それゆえ逆に言うならば、全ての正義信奉者たちにとって、己が善行を 信じるのと同じくらいには進化論もまた正当なはずだということが言える。逆も同様、進化論を絶対的な論理として信仰するのであれば、それと同程度には絶対善を主張する 正義信仰もまた論理的に正当なはずである。

ただし注意すべき点がひとつある。 善悪観というものは個々人の内的世界に基準をもつ信仰なのであり、それゆえ善悪観を他者に強要した時点でそこに矛盾を生じることに なる。 「善=善」というトートロジーが論理的に無矛盾であれるのは、あくまでも一個人の 内部に限られるのであり、「わたしの善」と「あなたの善」とのあいだに「イコール」の関係 は成立しない。それに対して現代科学は手法が逆である。科学というのは外的世界に 基準を置く・置こうとする信仰なのであり、その点が一般宗教とは異なっている。それゆえ科学と宗教という2つの信仰は決して親和することがない。

それともうひとつ、現代科学は宗教的神秘をおおむね否定しているのであるが、その理由もまた論理的整合性が問題とされているわけではない。そこにある理由はもう少し単純なことである。それは、個々人の主観というものが百人百様の考え方と基準があって当然のものだからであり、それら独りひとりの妄想に逐一付き合っているほど知恵ある人々は暇ではないという理由、そして経済的な実効性の問題である。


以上、これで科学信仰の論理的な立ち位置はおおむね理解されたかと思う。 科学理論の内容が細部に至るまで無矛盾であるかどうかは分からぬが、その根幹となっている論法は構造上、論破することは不可能である。それは我々が単純な二元論を克服できない限り不可能なことである。この論理体系は絶対善を信奉する者達の心と似て揺るぎがたい。以下に進化論に基づいて推察される我々の歴史を記述してゆくが、おそらくここに論理的な落ち度は見当たらないだろう。この論説が正しいか否かは、 後の時代、その時々の現実との整合性を検証する事でしか判別できないことだろう。 だが我々がこれまで歩んできた歴史についてだけならば、残念ながら進化論の論法によって概ね説明がつく。

以下にそれを記述していこう。






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