第一章 争いの理由

3. 問題の構造 (2)

安定した状態は残され不安定な状態は消え失せる。それゆえ万物はより安定した状態へと移行するようにして動く。熱力学第1・第2法則(※注)ならびに科学の採用する根本原理である。


かつて太古の昔に我々生物の歴史が始まるためにはおそらく、自らの複製を残す機能を備えた構造物が何らかの拍子に誕生するだけで事足りただろう。(DNA・RNAの端緒か、あるいは更に根源的な複製子。それは特異な空間構造であったかもしれない。(※注)) それが在るだけで複製が複製を生みだす連鎖反応が必然として生じることになる。その連鎖は複製能力に欠損がでない限り継続可能だが、この世界は基本的に不安定であり、あらゆる存在は絶え間なく変化し続けている。それゆえ、環境変化の中にあっても複製能力を保持し続けた存在と、変異によってより高度な複製能力を獲得したものだけが 複製増殖し続けることになる。そうでない物は環境からの圧力によってやがて消え失せる。それが淘汰と呼ばれる現象であり、その淘汰によってやがて複製のシステムは「存続」を至上命題として次第に強固なものへとなってゆくことになる……

論理的に考えてみて、システムが維持存続するための最良の手段は2つある。ひとつは、いかなる圧力に対しても「変容しない構造」を手に入れる事だ。しかしこれはおそらく物理的に不可能である (※ 熱力学第2・第3法則(※注)による制約)。それゆえもうひとつの手段だけが有用となる。それは、システムの存続を担う主体が自ら環境変化に合わせて自らの挙動を調節し、維持存続のための有効な手段を「模索し続ける」ことである。それが、存続を効率的に実行するための最良の手段。

複製システムが突然変異によって偶発的にであれその機能を獲得するのにはさほどの時間を要さなかっただろう。環境の変化に対して敏感に反応する機能、それがおそらくは神経系の端緒なのであり、やがて生物へと進化する構造物の先駆である。

生物界が形成されるとそこでは、どれほど巧妙に環境の中で立ち回れたかによって淘汰のふるいが機能する。それが生存競争であり、自然選択という過程を踏むことで生物の生存能力は向上されてゆくことになる。そこから生存競争を効率よく生き延びるために、社会を形成して協力しあう生物が誕生するのは時間の問題である。そしてここで取り上げてきた世界へと話は繋がってゆく……

社会システムは構成員である個々人の挙動(価値判断)が社会の維持存続の助けとなるように個々人の価値観を書き換えようとする。それがつまり教育であり躾であり社会規範。我々は先天的に遺伝システムに組み込まれる形で改変された価値観を「本能」と呼び、後天的に価値観を改変しようとする行為のうち、自分の正義にそぐわない場合だけを取り上げてそれを「洗脳」と呼ぶ。


少々荒っぽい書き方をしたが、これが我々の来歴のあらすじである。この説がどこまで正しいものであるのかについては、心理的抵抗やそれゆえの反論もあるだろう。だがこの論説の正誤とは関係なしに、我々が今置かれているこの状況はとてつもなく深刻である。

上記のような考え方、人間存在というものが遺伝子の情報伝達を担う乗り物に過ぎないという学説が一般に流布されたのは1970年代のこと。その時の一般の反応は当然のごとく激しい非難と忌避である。それがほんの一世代分の時を経ただけの社会にあって、なぜかしら新たな言説が平然と語られている。 ――自分の遺伝子を残したい――と。

その言葉の主体は一体どこにあるのか。


この先、我々が子供を作ろうとも作らずとも、それによって個人の幸福がどれほどに達成されるのかを保証するものは何ひとつ無い。自分の子供を有すことが必ずしも我々の幸福追求の助けとなるわけではない。我々の種が一代限りで滅びるのだとしても、滅びたあとで我々が困るわけではない。けれども、生物システムの維持存続のためには新たな子種の存在が必要不可欠である。だからこそ我々の本能的欲求はそれを助長するように出来上がっている。そして我々の祖先達はその行動欲求を正当化する為に様々な正義を組み立ててきた。いわく家系存続だの、子孫繁栄だの、血筋を絶やしてはならないだの、云々。

これらの正義に論理的根拠など一切存在しないことはくどいほどに述べてきた。そして上記のような正義、システムの存続を助長する正義しか後世に残らないことも冒頭で実例を挙げて説明をした。ようするに「生きんが為に生きる」というその遺伝子の存続ゲームに加担した者でなければ我々の祖先にはなりえないのである。我々の血脈をたどる事で見出される祖先たちは皆、自分の子をもうけてから世を去った。個人の行動理由としてはただ、性欲・繁殖欲を満たすかどうかというだけのこと、食欲を満たそうとすることと何の違いもないゼロサムゲームである。少なくとも我々の人生の主体が 「個人」 であるのならば このように説明できる。

これらの正義を支えてきたのは論理ではなく個々人の意志決定ですらない。正義が足場を維持するために必要なのは純然たる淘汰の歴史のみである。

これが、第一節のみでは描ききれなかったもうひとつの「正義の中身」である。

もう一度繰り返すが、事態は深刻である。



現在、ヒトの遺伝暗号・塩基配列の解読の成果によって遺伝子治療の技術開発が進められている。

これは個人を「改善」しようという試みであり、より社会の利益にそう人間を根源的レベルにおいて作り出そうという行為に他ならない。誕生後の個人を作り変えるよりも初めから社会的な人間を作り出すほうが手っ取り早く的確だからである。今後の技術の躍進は、遺伝子の改変によって様々な身体能力を先天的に付与することを可能とするだろう。

話をヒトに限らなければこれはとっくの昔から行われてきた事だ。遺伝子組み替え作物はもとより紀元前にまで遡る品種改良がそれである。当然そこで求められてきたのは誰かが必要とした能力を持つものだけである。すべては社会がより長く存続するために。人々の幸福追求は間接的にでもそれを支持するように作り変えられるだろう。

それが良いか悪いかを問うているわけではない。そのための基準を我々は持ち合わせていない。これはおそらく文明の必然的な流れに過ぎない。「1+1」が「2」になることの善悪を問うても始まらないのである。文明には歴史に依拠した発展段階が確かに存在し、その方向性も既に目に見えている。ここに在る流れは唯ひとつ、即ちシステムの維持存続という至上命題が微塵も揺ぎ無いものになろうとする方向性だけである。それが我々の歴史全てに貫徹される流れである。

そしていま社会を舞台にして新たな流れの派生が顕在化しつつある。それは、個々人の幸福追求とシステムの維持存続という2つの方向性を完全一致させようという流れである。万人の行動がシステムの維持存続を助長する事になるのであれば、これ以上の安泰は無いからである。 ――社会を構成する人々が皆、社会的であることの内に幸福を見出せる人間として作り出される社会。皆が幸福感の内に日々を暮らし、それでいて社会は何不自由なく機能する社会―― これは個人にとってみてもこの上ない理想郷と言えるかもしれない。文明がそこを目指しそこに到達するのであれば、誰にも文句のつけようのない見事なハッピーエンドと言えるかもしれない。

だが残念ながら、我々が理想郷を築き上げようとする試みはことごとく不毛に終わるだろう。なぜならば、上記の未来が達成される事はありえないからである。システムの存続と個人の幸福、この両者が完全に一致する事は不可能である。繰り返すが我々はゼロサムゲームを行っているのであり、ここでは全体の収支がプラスになる事はありえない。

そして、この問題が克服可能か否か、それはひとえにこの構造を生み出している根源的な理由に関わっている。


それは即ち――

なぜ我々のシステムが「ゼロサムゲーム」でなければならないのかということである。





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