第一章 争いの理由

3. 問題の構造 (3)

なぜ我々のシステムが「ゼロサムゲーム」で在らざるを得ないのか、システムと個人の利益が相容れないものとして作りだされているその理由は何なのか、我々を矛盾に満ちた不毛なゲームに縛り付けている強大な力の正体は何なのか……


第一節「正義の中身」は、価値観の差異は決して埋めようが無いという事実を理解せよという事から始まった。正義は単一の価値観を強要するものであり、それの衝突こそが争いなのだと述べた。だが第二節「倒錯する世界」において述べたのはそれとやや対立する事柄である。つまり、我々が正義を語る土台として、そして社会が成立する土台として、価値観の差異が必要不可欠であるということを述べたのである。正義を語るために悪を作り出す、差異を埋めるために差異を作り出す。だからそれが「倒錯」であり「マッチポンプ」「自家中毒」「暇つぶし」だと述べた。問題の矛盾構造のひとつがここにある。

個々人は己の信念・正義のままに行動しそれが報われることを望んでいる。だが社会はその手助けをしつつも、その欲求が完璧に満たされるような事があっては困る。より良い世界を求めること、システムの担い手が差異を埋めようとして動く事でしかシステムは機能しないからである。そうでなくては維持存続できない。したがって存続を望むものは無理やりにでも、自ら欲求が報われない状況を作り出す必要がある――それゆえ我々には相容れない2つの要請が課せられることになる。それは「差異を埋めよ」という 要請と「差異を作り出せ」という要請の2つである。この2つの要請は幾通りかに言い換えることができるだろう。たとえば「平均的であれ」という要請と「個性的であれ・他者より 秀でよ」という要請、あるいは「皆と同じようにせよ」という要請と「皆と同じではあるな」という要請、 または「争うな」という要請と「競争しろ」という要請 …… 当然どれも両立しない事柄である。だが我々の社会はそれを個人に突きつけているはず。

またたとえば「同胞を殺害してはいけない」という正義はおよそ社会にあって絶対善として規定されてはいるが、裏を返せばその正義が効力を持ちえるのは、「殺したい」という欲求や「殺せ」という要請が存在しているからである。その欲求、その需要の存在しない舞台であれば、わざわざそのような正義を言明する必要性は生じない。野生動物の社会のようにそのような正義を語らずに済むのであれば、我々からすればそれにこしたことはないのだろうが、あいにくのところ社会の複雑多様化が進むと同族殺害が有効な場合も訪れる。そして残酷なことだが、システムの観点からすればおそらくは、そのような需要を欠くシステムは多様性に乏しいことを理由に存続確率が低下する。画一的なシステムは想定外の圧力に対して脆弱だからである。それゆえシステムは「殺せ」そして「殺すな」という相反する要請を個人に課すことになる。

当然、我々にとっての幸福はどちらか一方の要請だけが報われる事だ。だが、システムの存続を至上命題として考えるのであれば、その想いは決して報われてはならない…… この世界を生き延びる最良の手段は、「最良の手段を模索し続けること」だ。我々のシステムを運営するのが我々である以上、我々が永続的な幸福を享受するようになった時点でこのゲームは破綻する。収支がプラスにまわった時点で、我々が現状を最良として受け入れた時点でこのゲームは破綻する。我々システムの担い手は常に、環境の変化を「悪」としてそれに対処し続けねばならない。だからこそ、生き延びてきたシステムは安寧を許容しないようにできている。淘汰されずに今なお存続しているという事はそれを意味するものでしかありえない。


おそらくこうした矛盾を生み出す構造は探す気になれば大量に見つける事ができるだろう。ここではあと一例だけ重大な矛盾を取り上げておく。それは我々生物の「死」にまつわる問題である。


我々は基本的に生を渇望し死を忌み嫌う。より長く存在し続ける事が我々にとっての幸福というわけではないはずだが、それでも我々は死を悪として退けたいと願っている。その理由はおそらく、遺伝システムの存続の為にはそうある方が都合が良いからである。自ら存続を望むシステムのほうが、より長く存続する事になる。だからこそ我々にはその特性が備わっている。この点だけについて言えば両者の利害は一致しているわけであり、取り立てて問題にする必要はない。だが遺伝システムはおそらく、一定期間の活動を終えて役割を果たした個体の死をも必要としているはずである。だからこそ我々には死の運命が備わっている。

その理由はいくつか考えられるが、ひとつには情報を担う構造物は放置すれば確実に劣化するために、複雑に組み立てられた遺伝情報は絶えず進化し続けねば滅びてしまうということ (※ 赤の女王仮説(※注)に基づく) 。 そしてもうひとつには、複製能力の劣化した個体は大方の場合、次世代のエネルギー獲得の妨げとなるか、情報伝達能力が劣化しはじめた個体へのエネルギー供給を行うことで単一個体の保持する情報をより長く存命させるより、情報媒体である個体を乗り換えて遺伝子プール全体を通じての多様性を確保する方が存続のエネルギー効率が良いということが考えられる (※注)。 ようするに、それは我々が常日頃、様々な製品を修理せずに使い捨てているのと同じだろうということである。

おそらくはそれらの理由によって我々は死の運命を遺伝子の内に組み込まれているのである。あるいは遺伝システムが個体の死を容認しているのである。だがこの運命は 我々の幸福とは決して相容れることがない。なぜならば我々はそのように造られている。

我々は死の運命を背負いながら、死を忌避する生物で在らざるをえない。



万物はより安定した状態へと移行するようにして流転する。そこには主体性や打算などありはしない。ただ黙々と淡々と変化し続けるだけである。だからこそ世界は、ときに人間からすればあまりにも無情で冷徹にも思える手段を取ることがある。そこには我々の希望など関係がない。世界は何も望んではおらず、ただ安定状態へと移行するものとして此処に存在するだけなのである。





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