第一章 争いの理由

3. 問題の構造 (4)

人は往々にして正義の名のもと人間の生き方や世界の在りかたに「本来あるべき正しい姿」が存在するのだと語る。我々人間はこれまでずっと神や法や良心などの名を借りて様々な事物について善悪を問いただし、己の現実の中に在るべき物と在ってはならない物とをふるい分けてきた。だが神であれ何であれ、もしこの世界に事物の正しい在りようを規定するものがあるのだとしたら、それは我々が「物理」として認識しているものと同等である。

AならばB、BならばC、ゆえに人間ならばかくあるべし――それが正義という概念の論理構造である。存在に対して正誤を問うてきた我々人間はまるで己が世界秩序の、物理法則の番人であるかの如く振舞ってきたのではあるまいか。


正義がそうやって必然を規定するものである以上、正義を掲げるという行為は、歴史の流れに抗うことと、実は矛盾するものでしかありえない。


人々はその矛盾に気が付いていない。

正義では歴史は一切動かない。それはその両者がまったく同じベクトルだからである。それは唯単純に、より安定した状態へ向かおうとする動きであるに過ぎない。

血で血を洗う歴史に終止符を打たんとして掲げられた戦争反対の正義でさえも、戦争をする正義と同じ行動欲求に基づく信仰である。そこには立場の違いが存在するだけであり、歴史によって形成された様々の状況がそこに存在するだけである。だからこそ人は平和を願うのと同じ信仰を掲げて戦争もする。

そもそも我々人間がそうした物理正義の命ずる通りにしか動いてはいけない存在であるならば、それは命令通りに作動する機械とかわりないのである。唯物論・必然性・人間機械論、それらの考え方は人間存在にとって途轍もなく残酷な物語であり、世の人は概ねその無機質な世界観に反感を示しているが、人々は自分がみずから進んで無機質な存在に成り下がろうとしていることに気が付いていない。


原因と結果、作用と反作用、入力と出力、唯それだけで人は動き、過去も現在も人は唯与えられた状況の中で幸福追求という命令に従って適切な反応を返すばかり。我々はただ過ぎ去った歴史の結果として理由もわからず此処に存在し、因果の鎖を引きずったまま再び因果の鎖を後世へと紡ぐ。運命の奴隷にして幸福を追求する子供製造機……

それが我々の真の姿であるのだとしたら、我々の存在にいかなる価値があると言えるのか。





先にも記したが、存続のための最良の手段は限られているのであり、それゆえシステムはそこへ至る為のルールを厳密に規定し、そのルールに従う人間を作り出そうとするものである。それは要するに文明の危機管理なのであり、社会は滅亡の危機を回避するために様々な安全策を講じることで、存続を脅かす危険性を極力排除しようとする。はじまりは集落を取り巻く堀や柵や番犬を用意するだけで事足りていたものが、やがて核兵器による恐怖の均衡状態にも至る。あらゆる危機的状況は事前に予測され、回避すべく管理されねばならない。それが都市文明社会の根幹を支えている基本思想である。

そうやって築き上げてきた巨大なシステムを維持するのには役割分担が必要不可欠だ。そしてシステム維持のためにはその役職に空席が生じることがあってはならない。誰がその役職に納まろうともシステムは円滑に機能しなければならない、歯車が欠けてはならない。それゆえ役職に納まった個人の行動選択肢は厳密に規定され制限される必要がある。すべては安定、維持存続という至上命題のために。だから社会は人間の個体差を封殺しようとし、ヒトは社会の存続のための方程式に組み込まれる記号と化してゆく。そして現代文明、情報化社会は大衆操作マニュアルで溢れ返ってゆくことになる

――人間ならばかく在るべし。

必要なのは正義であり、方程式と記号なのであり、そこで差異は切り捨てられ、また多くの人間は自らの手でも自らを規定するプログラムを必死で組み立てようと試みる。

それが「安定」を求めようとするベクトルである。


だがシステムの側からすれば、本当に安定し存続しつづけるためには、不測の事態にも対処できる柔軟性・多様性をも確保しておく必要があるのだ。かつてそれが理解されていなかった時代では少数派・異分子は即刻抹殺され、トップダウン型のシステム管理が最善とされていた。だがそれではシステムが柔軟さに欠けるため、伝統に縛られて身を滅ぼすことになる。不測の事態に対処しきれずにレミングの身投げと同じことになってしまう。だからそうした事にならないように、差異を殺しつつも差異を求めようとする、そのジレンマを抱えたシステムが生み出されることとなった。

そのシステムの問題点は、多様性の一端として抱えた異分子の振る舞いによって、システムの維持存続という本流が脅かされる可能性があるという点である。それはとりもなおさず、維持存続こそが至高の善であると信じ込んでいる人間にとって困った事態であるということだ。そこで、そのジレンマを解消するために我々人間は、長い歴史を経るうちに巧妙な手段を生み出した。

それが要するに、権力の「分散」あるいは「剥奪」である。


王や族長による独裁政治から、議会制政治へと、そして民主主義社会へと移行してきた歴史。それはトップダウンからボトムアップのシステムに移行してきた歴史でもある。そしてそれと並行して行われてきたのが、個々人の持ちうる実行力の封殺である。銃刀規制にしても役所の煩雑な手続きにしてもその実例であるが、そういう手段を用いることで個々人の実行力は規制され、それによって独裁者の暴走を防いだり、システムの存続を脅かしそうな異分子の力を、芽が出る前に摘んでおくことができる。それがようするに 刀狩り なのである。

これは安定を模索するためにはとても効率の良いやりくちだ。そもそも個体の多様性は自然に発生せざるを得ないものなのであり、システムの巨大化は必然として多様化の動きに拍車をかけざるを得ない。異端者の誕生を阻止することは不可能なのであり、その個体差を逐一上から押さえつけて都合良く改変することに比べれば、権力の剥奪という手法はとてもエネルギー効率が良い。そうやって異分子がいくら騒ごうともシステムは微塵も揺るがないという状況を造り上げてゆくのである。


多様性の枝葉を伸ばすだけ伸ばし、枝の一本が反旗を翻そうとも根幹に影響が及ばぬように権力を剥奪しておき、あとはボトムアップによって淘汰されるにまかせていれば、システムは自然に平均値を取りながら維持存続という本流を歩んでゆく。自由主義市場経済というのはそれの明確なひとつの顕現であるだろう。人がその経済システムを採用するに至ったのは至極当然の成り行きである。それは太古の昔より自然界において行われてきたことの模倣なのである。

そこではただ、生き残りのための能力だけが問われている。




経済システムも政治システムも、基本的に個々人の生活とは関係が無い。そこにどのようなシステムが用意されようとも人々の思いは報われず、ただジレンマの内に葛藤し続ける。そしてその葛藤こそがシステムをより強固なものへと築き上げ、より長く維持存続させるために用意された方程式なのである。

それが我々の身を置いているシステムの正体。そして我々自身の姿である。


この先文明がどこに向かうのか、人々がその時々においてどのように考え、どのように振る舞うか、それらを予測することはそれほど難しい事ではない。人は自分自身で考えているほどには自分の頭で物事を考えてはいない。人の社会を運営しているのは人であると記してきたが、実際にはそれも怪しいものである。とても単純な因果関係に基づいて大方の説明がついてしまう。歴史があり法則があり現在がある。人は往々にして未来の事は分からないと語っているが、それはおそらく自分が何をしているのかを理解していないだけである。歴史の流れには明白な方向性があり、未来は既に我々の内にある。このシステムは物理限界に直面するまで突き進むだろう。資源の枯渇、あるいは人間の適応能力の限界が訪れるまで。





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