第一章 争いの理由

3. 問題の構造 (5)
結び

私がここで述べてきたこと、こうした主張が社会において公然と語られることは、まずありえないことだ。なぜならばこうしたことを語ってもその先どう行動すべきかという正義が誰にも分からないからである。安定を求める人類が寄りすがるための正義がこうした事実からは汲み取れないからである。

いかなる論法を用いようとも、我々の欲求解消ゲームを正当化するような理論は成立しない。だからこそ「善は善であり確固たる行動規範である」という、説明放棄と思考停止が世にまかり通ることになる。全ては己が安心感を得るために。大抵の人間にとっては思想の矛盾点や問題の構造などどうでもよく、とりあえずの欲求不満を解消できればそれで良いからであろう。ならば好き嫌いの感情に基づいて正義を騒いでいる方が簡単でよい。たとえ理想郷を信じてそれを追い求めることが、それがために歴史を繰り返すことになろうとも、それに気付かずに居られるならばその方が希望と幸福を妄信できる。だから大半の人間は信仰の正体について考えようとはしないのだろう。

我々は自分がどのように考えどのように動いているのかすらも自分自身で把握していない。だから世の中は単純で、どれほどばかげた歴史であってもそれを繰り返してしまう。




もう結構だ。





誰の意志で存在し、何を目的として生きるのか。幸福が欲しいだけならば薬物にでも手を出せばいい。それが幸福獲得の最短の手段であることはもう判明済みなのだ。そして繰り返すだけの人生ならば、いつそれに終止符が打たれようとも一緒であるはずであろう。人が正義を希求せざるを得ないほどに痛みを抱えて生きているのなら、一度くらいこうした事実と向き合って異なる痛みに身を委ねてみても損は無いはずだ。


そろそろ新しいゲームを始めよう。

今問題なのは我々がどうしたいかという欲求ではなく、どうすべきかという正義でもない。問題なのは我々に何ができるのかという「可能性」である。まだ何も始まってはいない。だからこそ物語が始まるために用意したこの第一章、我々がこれから始める「争いの理由」なのである。

この世界のルールをかいくぐるのは至難の業だ。果たして我々を規定するルールを変えることができるのか、それはまだ誰にも分からない。だが、ここが可能性の無い世界であるならば、そんなものには微塵の価値もありはしないのである。


事の仕組みさえ理解していれば対処のしようもある。可能性の有無も判別がつく。

まずは、ルールを理解することから我々の物語を始めるとしよう。




もし汝らの「自然に従って生きる」という命題が
根本において「生命に従って生きる」という ことであるならば、
汝らはかくあるほかにあり得ないのではないか。
汝ら自身がそうあり、 そうあらざるを得ぬものを、
どうしてわざわざ原則として立てる必要があるのだろうか。

―― ニーチェ 『 善悪の彼岸 』 ――
この神話の体系をしっかりと支えるのは、我々のうちに植え付けられた、
かの盲目の希望である。すなわち、我々がこれから出発しようとしている旅路は、
昨日までの旅路よりもさらにはるかで幸多いものであるに違いないという
盲目の希望である。

―― エドワード O.ウィルソン 『 人間の本性について 』 ――
体系の内部から見れば様々な差異しか存在しない。逆に外部からは同一性しか
存在しない。内部からは同一性が見えず、外部からは差異が見えない ・・・
この体系の解明のためには、内部からと外部からの両方の見方の融合を
土台にしなければならない。

―― ルネ・ジラール 『 暴力と聖なるもの 』 ――




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