18世紀イギリスの哲学者、デイヴィッド・ヒュームは 『ヒュームの原理(法則)』 と呼ばれるものを提示した。これは―― 事実命題「~である」から規範命題「~すべし」は導けない ――というものである。言い換えるなら「事実によって行為を正当化することは出来ない」 ということであり、前章の内容を踏まえてきた我々からすれば、これがあまりにも当然のことであることは理解できるだろう。
時代の哲学というものは、その時代における自然科学知識の質が色濃く反映されるものであり、したがって、宗教が幅を利かせていた時代、絶対善と絶対悪が存在し得た未熟な時代であったことを考えてみれば、哲学者がわざわざこのような法則を打ち立てねばならなかった事態も想像に難くない。
現代において『ヒュームの法則』それ自体にもはや議論の余地は無い。議論の余地があるとすれば、それはヒュームの法則の持つ社会的な意味について、ということになるだろう。ここではそれを踏まえた上で「事実と価値」という文脈からいくつかの事実を明らかにしてゆくことにする。
それにはまず、言葉の定義を再確認するところから始めなければならない。
まず、「事実」とは、我々がこの言葉を行使する便宜上「最も整合性に富んだ情報」と定義することで問題無い。だが、「価値」というものについては少々細かく記述する必要がある。 私の見る限り、これは全くと言っていいほど理解がなされていない。
「価値」とは、その意味を辞書通りに記述するならば「目的実現のための手段の有用性」、つまりは「役に立つ度合い」ということであるのだが、このような理解だけでは不十分である。なぜなら、人が求めている価値とは手段の有用性の保証などではないからである。
それは少し考えてみればすぐに分かる。例えば野球のバットはボールを打つための手段として有用であるゆえに、ボールを打つという目的に対して価値を得る。だが、人が求めている価値はバットの有用性などではないはずである。ボールを打つという目的に価値を見出しているからこそ、手段としてバットを行使するのである。では、ボールを打つという行為の価値は、何に対する有用性から導かれるものなのか。
その目的はルールに則り点数を得るため、点数を得る目的は対戦チームと競い勝敗を決すため、勝敗を決す目的は……
これも単純な話である。―― 価値とは手段に与えられるものであるが、人は目的に価値を与えようとする ――ということである。目的に価値を見出そうとする限り、 どこまでもその上部構造を考えていかねばならない。 言わば無限に続く螺旋構造になっているのである。
だが、人間は目的に何らかの価値を見出しているからこそ、行動を取っているはずである。これは人間のみならず全ての生物において言える事であるが、手段ではなく目的の有用性が保証されない限り生物はいかなる行動も起こさないはずである。価値とは目的があって始めて成立する生物特有の概念であり、目的としての価値が無ければ、手段としての価値もまた存在しないからである。
しかし今見てきたとおり、目的と手段の螺旋構造は既知の部分においては目的の価値を保証していない。では生物に目的の有用性を保証しているものは一体何であろうか。
現代の科学知識を持ってすればこれに答えることは簡単である。 即ち、それこそが信念と呼ばれるものであり、遺伝子に刻まれた生存本能の発現に他ならないということである。 科学に懐疑的な者や、価値そのものに神秘性を求めようとする者であればこれに異を唱えることもあるだろう。だが、確実に否定できないのは、対戦チームに勝つことや、異性に惹かれることなど人間が営む活動のすべては、 自らの意思によって既知の領域から目的の有用性を導き出すことはできない、ということである。
前章でも述べたが、家系存続や、子孫繁栄や、血筋を絶やしてはならないといった正義の目的に、いったい如何なる価値があると言えるのだろうか。行為の価値を知っている人間など一人もいないのである。 されど、我々生物は有用性が保証されているかのように振舞う。価値を知っているかの如く振舞っているのである。 それは「そう信じている」としか形容され得ないものである。
人が何か行動を起こすときには必ず目的の価値を「信じている」わけである。価値を知っているわけではない。そして人が何かを信じられるのは、それを否定あるいは肯定する事実を知らないからに他ならない。信念は確実に未知の領域に向けられるのであって、その信念こそが目的に価値を与えているのである。
ようするに――価値は未知の領域に存在し、信念によって与えられる ――ということである。これが人間を主体として考えた場合の「価値」、 つまり「行為の価値」の意味である。
これを踏まえて考えてみれば、簡単にもうひとつの事実と価値の関係を導き出すことが可能である。 目的の価値が未知の領域の産物であるならば、そこにあると信じていた価値が事実によって存在証明されることは有り得ず、 逆に信じていた者にとっては、そこには無いという事実によって価値が否定されることしか有り得ない。
価値の存在証明は不可能である。したがって、
一部の事実は行為の価値を否定する。
これは、ヒュームの原理の裏を返したら、そうならざるを得ないのであり、当然と言えば当然過ぎる定理である。 だからこそ、未知なるモノの代名詞であった神はその居場所を追いやられたのであり、神の名のもと価値を標榜する人間は未知なる領域を守ろうとし、無知であり続けようとするのであろう。
以上ここまで述べてきたことは「事実と価値の関係」の単純すぎる基礎事実である。
だが、これらはおそらく、多くの者達にとって禁忌(タブー)となっているはずである。 なぜならばこれが今までに公然と語られた事例を私は知らないからである。
禁忌とは、言動を禁じられている事を意味するのではない。 禁忌とは、無意識の抑制によって意識化することが阻まれるもの、そして暗黙の了解を覆すものであるという意味である。 総じて言えば、それは「問われることを禁じられた意味」である。
多くの者にとって「価値」の意味について考えることがタブーとなっているのはその一例であり、これの具体例としては、「何のために?」というセリフは禁句であり、その問いへの返答に対して繰り返し「何のために?」を問うことが禁忌となっているのが挙げられる。大抵の者はおそらく自分に対してこのように問いかけることを自ら禁じているはずである。 これは信念を守るために機能する、無意識の防衛機構によるものと考えざるを得ない。
ヒトはなぜ生きるのか。なぜ自殺が悪い事だとされるのか。このような問いかけをストレートにぶつけてくるのは幼子くらいのものであろう。そして、もしもそうした問いがあなたに向けられたなら、何と答えられるかを考えてみるといい。
おそらくは文明の初期において、このような問いを自らに発し続けた者が、未知や目的を埋め合わせるものとして「神」を生み出したものと想像するが、言葉だけが一人歩きした後世において「神=未知」の図式が失われ、いらぬ紛争を巻き起こしてきたのが一部の歴史であるのだろう。
信仰心の強すぎるキリスト教信者たちが住まうある地域では、進化論を学校で教えることに対して激しい非難が巻き起こり、聖書の内容にちなんだ創造説を教えることを強要する狂信者によって暴力沙汰も起きている。21世紀になった今も、この手のニュースを耳にする。
神秘を守ろうとする人々によるこうした暴動は、枚挙に暇がないほど歴史の中に溢れ返っている。
こうした歴史からもうひとつ認識されるのは、この『ヒュームの法則』をはじめとする事実と価値の関係を、学者もふくめ殆んどの者達が理解していないということである。
そして、ここに学問の葛藤を生み出すひとつの構図が見えてくる。
現在、軽く千を越える数の学問分野が林立し、その中で多くの学者たちが皆それぞれの研究に従事しているのであるが、それも各々が自分の研究に何らかの価値を見出しているからであり、彼らが価値を信じることが出来るのも、そこに未知なる領域が存在するからにほかならない。そして学問とは、常に何かしら新たな事実を導き出す物なのであり、それゆえ次第に、未知の領域が生み出していた価値は事実によって否定されてゆくことになる。
つまりここに――
価値を追求するあまり価値を否定してしまうという構図、言わば価値追求のジレンマとでも呼ぶべきものが生じているのである。
近年の医療技術の発展に伴って、脳死や中絶や安楽死、またドーピングや遺伝子操作といった状況が発生し、その中で様々な倫理問題が新たに持ち上がってきた。人類の歴史を通じ、科学は事あるごとに倫理との葛藤を生み出している。
これは生命科学の分野において顕著であるが、その理由も当然の如く自然の神秘性こそが多くの者達が信念の拠り所にしている未知の領域だからであり、生命科学が、己自身についての知識を深め、タブーに抵触する学問分野であるからに他ならない。
神秘や価値や妄信は、事実が解明されたときに消え失せる。それが人類の歴史において事あるごとに科学と倫理の葛藤を生み出している原因構造なのである。
ただおそらくこれは、いらぬ誤解を招く言説であったかもしれない。わけもわからず科学を否定する者や、価値が否定されるような事態は断固として阻止せねばならないと信じている者達にとって、これは知識を糾弾する材料となりそうな話だからである。だが、このジレンマは彼らの様な者達も含め、すべての人間に言えるものであることは自明である。
ネオテニー型進化(※注) を遂げた種である人類は、学習に重きを置くことで生存能力を高めてきた生物であり、元来が好奇心旺盛な生物なのである。それは即ち、ヒトは未知への探求に多大な価値を見出すように作られた生物であるということであり、それゆえ「価値追求が知識を導き、知識が価値を否定する」という不毛な構図、螺旋構造が確実に誕生せざるを得ないのである。また、未知を求めるという点においては学者もオカルティストもいわゆる一般人も同列である。
それともうひとつ、人間は自らが行為の価値を求めていることを少なからず自覚できる、生物だということである。これは先にも指摘した通り「目的に有用性を求めていることに気付く」という同様に不毛な螺旋構造である。これは大半の者が無意識にせよ感じ取っているはずである。なぜならば、もしそうでないとしたら、今までに数多くの者達が宗教に寄りすがっていった理由が考えられないからである。
以上、2つの点を持ってこれを「価値追求のジレンマ」とし、これが古くから人類を葛藤におとしめてきた根本的原因であると、ここでは想定しておくことにする。
これら「事実と価値」の関係は、人間にとって「知識と行動」と同じであり、また「入力と出力」と同じ意味である。だからこそこれは、人間の諸問題を語る際に、必然的に関わらざるを得ない文脈となってくる。だが、ここまでの記述だけでは社会問題について語るには少々文脈に乏しいかと思われるので、もう少しだけ話をしておこう。 そこで社会問題について論じる際に、冒頭に記したヒュームの原理は少々使い勝手が良い。 例えば政治について考えてみると、
――政治とは学者による事実命題「~である」を集積し、社会要請である「どうすべきか」を導き出すための機構であると考えられるわけであり、つまりは感情論を取りまとめるための機構に過ぎない政治において、最良の判断など成立し得ず、また最良の政治形態なども成立し得ないことが理解されるわけである。これは、政治が未だ紀元前のそれと同じ問題に頭を悩ませていることを考えてみても自明のことである。(それと、サルの社会にも人間と同じような政治的問題と政治的駆け引きが溢れ返っていることも記しておく。)――
結局のところ、我々にとって重要なのは論理ではなく倫理なのであり、いかに行動するべきかという正義を人は必要としているわけだ。だが倫理問題に囚われているだけでは物事は前を向いて進まない。
近年の科学と倫理の葛藤を見る限り、いまだ政治と同レベルでしか論争されていないのが実情であり、同じ問題が繰り返されるその根本的な構造問題に対して光が当てられることは行われていない。ちまたに溢れ返る学説のなかにも倫理が溢れ返っているのは一目瞭然なのであり、これも中盤で述べた禁忌の問題と同様、あまりにも単純な事実が明らかになるのを恐れているからに他ならない。現代、これほどまでに情報が溢れ返る時代にあって、それはもはや近視眼的に過ぎる態度であると思わざるを得ない。
まずは、論理的思考から禁忌を払拭することである。禁忌や倫理は事実を見る目を曇らせるだけでしかない。それでは未だ論じる段階などではない。ヒューム以前の時代と同レベルである。政治と同様、感情論を取りまとめているに過ぎない構図では、ただ繰り返すだけで確実に先が無い。
正しく問題構造を把握し、根本問題をいかに変えうるかを考える必要がある。
それゆえ私は次章以降においていくつかの問題に、倫理的な配慮をせずに光を当ててゆく。 ただし、価値の存在証明は不可能なのであり、それゆえ真実は痛みを伴うものとなるだろう。
それを重々理解しておくことだ。
これを述べておくために、私はここで次章への布石としてこの論説を展開しておきたかった。
まずは 「生命とは何か」 その答えから述べてゆく。もはやそこに神秘は無い。