第三章 生命をめぐる問題の解
― 日常問題について ―

かつて人々は、生物のなかに霊魂の存在を想定し、その霊魂の有無こそが生死をへだてる一線であると考えた。そこには、死に対する恐怖心や遺族の悲しみを和らげる目的で語られる、「魂の不滅」という幻想が密接に関わっていた。古今東西あらゆる文明が霊魂という概念を有していたようであり、ほとんどの宗教が霊魂の存在を教義に掲げていることからも、霊魂信仰の需要の高さがうかがえる。

ひと昔前までは「生気論」や「心身二元論」といった霊魂信仰の別形態が学問の世界においても存在したのであるが、現代において学術的にはもはやそれらの説は採用されていない。

それは、我々が「自我」と呼ぶものの正体が脳構造から生み出される機能であるという事が、いまや明白な事実として理解されたからである。

アルコールや麻薬、抗鬱剤などの向精神薬は、脳に作用して顕著な人格の変容を引き起こし、脳に直接電気刺激を与えれば部位に応じた知覚を生じて、有るはずの無い物を見聞きする。感情や感性などの自分らしさと思えるものも、しかるべき神経組織を切断してやるだけで、たちどころに霧散する。身体各所の感覚器は情報源であり、情報を認識しているのは全て脳である。我々は眼球で世界を見ているのではなくて、脳の中に作られた仮想現実を生きている。したがって、すべての脳機能が停止すれば、もはや自分を認識する事もない。それは当然の事である。

一般的に人々が「生命の尊さ」を語るとき、また幽霊話で盛り上がるとき、そこに想定しているのはれっきとした人格者の魂であるだろう。だが、人格者としての個性のすべてを作り出しているのは「脳」である。だから、もし仮に生命をになう魂・生気のようなものが存在するのだとしても、脳を伴わないそれは認識や感情を持たない無個性なものであり、それはもはや我々の日常的、主観的な生命とは無関係なのである。


現代の我々にとって霊魂説はもはや過去のものであり、我々はもはやそれを信仰することができないほどに知識を培ってきた。我々にとっての生命は「脳」と切り離して考えることはできない。

無頭症児や多重人格、脳死や痴呆(認知障害)、記憶喪失のことも考えてみればよい。



我々は「生」の対極として「死」を語る。日常的な意味におけるこの「死」とはいったい何なのか。我々がここに存在していること、それを認識するにはそもそも脳が必要である。それゆえ、我々にとって自分が今「生きている」という実感は、脳が「意識している」という事と同じであり、自分が死ぬということは意識が消失することを意味するだけである。本人にとっての死は眠りにつくのと同じ事であり、眠りのさなかに眠りを自覚できないのと同様に自分自身の「死」を実感することは永遠にありえない。死とは自我の消失であり、何も認識することができなくなる事である。

したがって、我々にとって自分の死は、利害判断の対象にはなりえないはずである。死によって利害得失の一切の認識もまた消失するのであり、それゆえ死んだ後にはいかなる利害も生じない。己の死がいつ訪れようとも、どのようにして死のうとも、死んでしまえば結局は同じことであり、その利害判断をする自分はすでに無い。我々は決して自分の死を振り返ってみて、悲しんだり、喜んだりすることもできないのである。過去形で語られる死を問題にするのは常に他者ばかりであって、死の後に周囲の環境がどう変化しようとも、死にゆく者、死んだ者には無関係である。

我々ヒトという種が一代限りで滅んだとしても、我々は何も困らないはずだろう。ましてやまだ生まれてもいない子孫がそれを嘆くはずも無い。それゆえ、多くの人間にとって死が害悪であり、恐怖や忌避の対象であり続けているのは、もはや個人の意思や利害の及ばぬところ、生物学的な理由以外を考えることは不可能であるだろう。つまり、死を忌避するのは自然淘汰の積み重ねによって形成された生存本能だということであり、したがって、種の保存という不可解な目的のために邁進する生存本能に従うのではなく、自由意思を有し判断を下す一個の人格者としての我々が認識の主体であるならば、死は決して自分の問題にはなり得ない。


我々にとって「死」は永遠に、他者に対して向けられる概念でしかありえない。そして我々が死を忌避するのは、自分の考えというよりは、本能によってそう考えさせられているというほうが、より真実に近いのである。そう考えなければ説明のつかない事実は数多くある。現に我々が「生死」の問題をことさらに騒ぐのは、それが同族に対して降りかかった問題である場合が殆どであろう。

たとえばカニバリズム(食人行為)は現代文明では概ね禁忌とされているが、それはなぜだろうか。 また化粧品としてヒトの胎盤エキスが用いられるが、それと食人とでは何が違っているのだろうか。


他者の生死にまつわる問題は、脳によって認識される個々人の「主観」によって生み出されているものだ。そしてそこに伴う倫理問題は単に個々人の価値観の問題であるに過ぎない。


生が無条件に喜ばしく、死が無条件に忌避すべき対象であるならば、見知らぬ他人の生死の知らせに無感動ではおれず、細胞単位の生命が日々死滅生成する様にも人々の心は揺れ動くべきであろう。他者の生死はあくまでも情報に過ぎず、そこに感情が伴うのは己の利害に関わりが有ると認識された場合だけなのである。

それは例えば殺人事件を例にとっても良く分かる。近親者の死が偶然の事故死であったならば悲しみに暮れてあきらめがつくことも、他殺であれば怒りの感情が加害者へと向けられる。その違いを生み出しているのは死因であり、被害者が死んでいるという事実は変わらない。感情は断絶された利害関係の補填として作用するのであり、死が直接に感情の引き金になっているわけではない。

この問題の本質は、生命それ自体にあるのではなく、死んだ当人と自分とのあいだに成立していた利害関係であり、脳に残されたその関係の記憶と今後の人生をめぐる価値判断の問題である。

殺人の加害者と被害者のあいだにも利害関係が存在し、加害者には殺人を肯定する利害判断が存在する。その感情と価値判断は、被害者遺族が加害者に対して向けるそれと同等のものであり、そこにあるのは立場の違いと価値観の違いだけである。この問題における生命の存在は、被害者がすでに死んでいるという事実だけであり、それだけでは唯の情報なのである。

失われた関係はもはや過去の物であり、それは人間の記憶の中にのみ残る。死者の脳機能はすでに失われ、死んだ当人にはいかなる主体性も存在しないのであるから、死者の悲しみや無念といったものが実在することは有り得ない。すべては生きた人間の脳の中、記憶の中にのみ存在することである。

一個の人格者としての我々にとって人間とは脳であり、

生命とは意識であり記憶である。


それゆえ、日々絶え間なく変化し続ける脳とそこに蓄えられた記憶の変化は、「自分」を認識している生命の主体が変化することに他ならず、それは「自分」という存在が絶えず死滅生成しているのにも等しいことなのである。過去の自分と今在る自分はすでに別個の生命体であると言ってよい。それでもなお、変わらぬ自分があり続けると想い願うのは、アイデンティティーの問題であって生命の問題ではない。生物である肉体に生涯一貫して存在する何かが有るのだとしても、それは学術的な問題に過ぎず、我々の意識を主体とした死生観とは無関係であろう。

これは他者に対しても同様である。親しき者がいつまでも自分の知る同一の人物であると想うのは、独善的な希望と便宜上の判断に過ぎず、記憶喪失者や被洗脳者に対して己の想う「本来あるべき姿像」を押し付け、強要するのは、その独善性の顕著な表れである。死者の無念を勝手に想像するのもそれと同じ事である。

主体が変化すれば、それはもはや別人である。

そして、主体性が失われるのであれば、それは死であると言っていいだろう。



以上、ここまでで述べてきたことが、主観的な「生命」をめぐる問題の解答である。

今のところ人々が日常的に思う「生命」について、これ以上述べる事はさほど無いだろう。

一般に生命の問題だと考えられていることの全ては、厳密には「意識」をめぐる問題だと言った方が良い。倫理問題における生命の尊厳という旗印にしても、それは何も、生きていることが尊いなどと言っているわけではない。そのような安直な提言はすぐさま「生きていればそれで良いのか」という疑問の前に崩れ去る。それはただ、各々の思い描く生命観、生命のあるべき姿像を尊び、肯定するというだけの主張であり、生命倫理問題というのは信仰や権利をめぐる利害の問題である。だからこそ中絶・脳死・安楽死などの問題をめぐって対立する両陣営が、共に生命の尊厳を掲げているのであろう。彼ら全員の利害が一致することなど有り得るはずもない。

生命の尊厳を遵守せよという一見絶対不可侵に思える命題は、それだけでは何も示唆しておらず、むしろ誤りを孕んでいると言ってよい。生命という言葉は抽象的で曖昧なものであり、それ自体は具体的に存在する何かを指す言葉ではないのである。

それでもなお多くの問題が生命という言葉によって語られてきたのは、ひとえにこれらの問題の裏に潜む大きなタブーに触れずにおく為であり、そのタブーこそがここで幾度も述べてきた「主体性」という観点である。

現代において論じられている問題の多くには、この観点が抜け落ちているであろう。


自殺・自殺幇助が禁じられるのはなぜか。その利害判断の主体はどこにあるのか。

死者の無念の主体はどこにあるのか。死後の名誉や責任の主体はどこにあるのか。

受精卵や胎児に主体性はあるのか。脳死患者に主体性はあるのか。

誕生を祝い、死を悲しむのはなぜか。その感情に主体性はあるのか。

人々の行為に主体性はあるのか。

果たして生命は尊いか。



すべては意識の問題である。

それゆえ意識という存在についても後ほど答えを記述していこう。だが、その前にもう少し知るべき事がある。学術的な生命の問題について、すなわち我々とは、生物とは一体何かという問題、そして我々が「生命」と呼ぶものの正体についてである。



’03.7.22



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