第三章 生命をめぐる問題の解
― 学術問題について ―

学術的な問題として「生命」が問われる場合、それは「生命現象とは何か」という問題と言い換えてよい。そしてここで具体的に問題にされるのは通常、「生物と無生物の絶対的な違いは何か」という点である。

生物とは生命を有す物の事であり、生命を持たない物が無生物とされる。したがって生命現象としての「生命」だけを問題にするのであれば、「生物」を定義することは「生命」を定義することと同じである。——生命を「動き」であると定義するならば、生物とは「動く物」ということになる。

これまで多くの科学者たちは、生物の構造と機能の因果関係を解明すること、そして生物と無生物の違いを列挙することによって、生物に特有の何かを見つけ出し、それを「生命」の定義にしようと試みてきた。例えば「生殖」や「代謝」、複雑なところでは「恒常性」や「自己増殖」「自己組織化」などの機能がその定義の候補として挙げられている。だが、定義をめぐる論争は尽きず、いまだ確定的な答えは提示されていないというのが現状である。

それゆえ、「生命現象」はいまだ難解で神秘的なものであるかのように思われている。だが、「生命とは何か」という問題を解く限りにおいて、科学者達が従来おこなってきたアプローチは、いくつかの点で根本的に間違っている



まず、

現在の科学には生物の確たる定義は存在しない、それはつまり、ヒトひとりを生物と見なす根拠すら科学的には不確かということなのである。それでは学者達が研究対象としている「生物」すら、何を指しているのか不明であろう。ここにはひとつの観点が抜け落ちている。


学者たちが行っている生物の定義をめぐる論争、それは具体的には、「ウィルス」「ウィロイド」 「プリオン」などの存在が――生物に該当するか否か――という論争である。これは実質的には論争と呼べるようなものではなく、ただ単に科学者たちが各々「生命と見なす」「見なさない」という主観的解釈を言い争っているに過ぎない。それは、ウィルスを生物と見なすならばそれをも包括した生命の定義を成立させる、というきわめて便宜的な線引き、いわば政治的な取り決めを行おうとしているだけのことである。

そして、そのような便宜的な線引きを行おうとも、定義に該当しない存在を巡ってそれを生物と見なすか否かという論争がどこかで生じてしまうことは明白なのである。なぜならば、生物に特有の機能や構造によって生命を定義しようとする彼らの企て、生物と無生物を分け隔てる絶対的な違いがあるはずだという考えが「生気論」に基づく考え方だからであり、その考え方は数多の事実によってすでに否定されているからである。

それは例えば「死」について考えてみればよい。生命・生物の絶対的な定義を求めるということはつまり、「生きている」状態の絶対的な定義を求めるのと同じことなのであり、したがってそれは「生物がいつ生まれ、いつ死ぬのか」という問題に解を与えようとするのと同じことだからである。生物が生まれそして死んでゆくこと、無生物から生物へ、生物から無生物へと変化してゆく過程には、不可分に連続したあらゆる状態が存在するのであり、その変化過程の中に「ここで生命が誕生する、ここで生命が消失する」という「瞬間」は存在しない。それは脳死をめぐる生命倫理問題においていく度も論争されてきたことで理解されるようになってきたはずだが、これは全ての自然現象に言えることであり、自然界には何かを二元的に分かつ境界線などは一切存在しない。境界線を見出し、線引きを行うのは人間の脳であり、それは物事を認識するための便宜上のものである

そしてこれはもうひとつの点からも指摘することができる。それは進化という現象である。

少し明確にしておくが、進化論はいまだ細部において不明な点の残るひとつの考え方に過ぎないが、それでも理論が大筋で正しいことは立証されている。そして、進化というのは歴然と存在する現象に付けられた呼び名であって考え方ではない。これは常に進行中の現象である。

この進化という現象が指し示すのは、生物種は過去にも未来にも不変ではありえないということである。生命が過去に無限の歴史を持つなどということは有りえず、また無からは一切何も生み出せないこの世界にあって、生命がどこかで唐突に発生したということもありえない。原初の生命は間違いなく無生物の中から物理的必然性によって発生したのであり、その過程には確実に、既知の生物のあらゆる定義に該当しないが生物のように振舞う、生物と無生物の中間状態にあるとされる存在を際限無く見出すことが可能であるだろう。

そのどこかに境界線を引いて区別しようとするのは人間の勝手な都合に過ぎない。


以上、これらのことからひとつの事実を断定できる。

生物と無生物を分けへだてる絶対的な違いは存在しえない、ということである。




ただ、このような事実を持ち出すまでもなく「生命とは何か」という問いに解を与えることは、実は簡単なことである。

ヒトは、生物と無生物の違いを指して「生命の有無」を言う。植物の芽生え、妊娠の知らせ、赤子の産声、それらを通してヒトは生命の誕生を語り、生物が活力を失ってその身を無生物へと変えてゆく様子、生命を宿す状態から生命の失われた状態へと変化することを指してヒトは生命の「死」を語る。生命は、人々の認識の中に確かに存在する。そして、我々は誰一人として遺伝子や生殖機能の存在によって生物と無生物とを区別しているわけではない。

考えるべき点はその「認識」なのであり、認識している我々個々人の「脳」である。


現在いくつかの実験から、人工的に作り出されたある種のシグナルが、ヒトに生命の存在を「誤認」させることが明らかにされている。そのシグナルはバイオロジカルモーションと呼ばれ、動きの有無や動き方、姿形、音、といった単調なものであり、それが「誤認」を引き起こすということから、我々の日常的な生命の認識がそうしたシグナルの認識と同一であることは明白である。

したがって、これが「生命とは何か」という問いの答えである。 つまり――


「生きている」ということは、我々が生物であると見なすいくつかの特徴を備えていること、特定のシグナルを発していることを意味するに過ぎず、

「生命」とは脳が特徴を認識する、その認識それ自体のことである。

死はその特徴が失われてゆく一連の過程のことである。

「生きている」と見なすからこそ、我々はそれを「生物」と呼ぶ。

「生物」であると見なすからこそ、我々はそれを「生きている」と言う。


これが我々の認識する「生命現象」の正体であり、どれほどに生物の構造が明らかにされようともこの同語反復は変わりえない。

そのシグナルが自然の産物であるか人工物であるかの違いは、知識の上で問題にされるだけであり、ヒトの生命認識においては二の次である。ちなみにテレビ等から発せられるシグナルはすべて偽物だと言ってよい。

そして、我々生物がいくつかの特徴だけを特別なものとして選び出し、生命として認識しているという事実は、進化の歴史を考えてみても、同胞や敵、獲物を特別視するためには不可欠であり、獲得されて然るべき機能であったと言える。だからこそ、科学者たちが「ウィルス」など人類が野生状態で観察することが無かった存在と顕微鏡越しに遭遇したおりに、生物であるか否かの判別がつかないという事態が生じてしまい、一部の学者のあいだで「生命と見なすかどうか」という論争のタネとなってきた。だが、人がどこに生命の特徴を見出すのかは、個々人の有している知識や感情によっていくぶんか左右されることであり、それゆえ生命の認識は「相対的」な主観でしかあり得ない。すでに述べてきたように、生物と無生物を隔てる絶対的な違いなど存在しないのであるから、客観的な生命現象というものも存在せず、万人が納得する「生きている状態」などというものは成立し得ないのである。

学者たちが生物の定義をめぐって論争しているのはまったく不毛なことだ。事実はただ、それを「生きている」と思う人間もいれば、思わない人間もいるというだけのことなのである。


かつてジェームズ・ラブロックが提唱したガイア仮説が一般において曲解され、地球を一個の生命体とみなした大地母神信仰を生み出したことがあった。そのガイア信仰は、およそ根拠の無い希望を博愛主義者たちにもたらしていた事もあり、一部にこの誤謬を戒める声もある。だが、地球を生命体とみなすこと、それ自体は科学的に否定されるものではない。

「生殖」や「代謝」といった机上の概念をもてあそんでいるばかりの現代科学では、実質上、ヒトを一個の生物と見なす根拠すら不確かである。人間ひとりを構成する細胞のひとつひとつが確実に生きた存在であり、一個の生物と見なすべきであるが、誰も一人の人間を多数の生物から構成された集合体であるなどとは考えたがらない。我々の生命・生物の認識はすべて「生きている」という信号を「受理するか否か」という個々人の主観的な利害判断の上にしか成立しえない物なのである。

それゆえ、私の考えでは「生命」というのは「社会」の同義語だと言って良い。

人間は、遺伝子に刻まれた本能による生得的判断ばかりでなく、脳に蓄積された情報に基づいた回りくどい判断を多分に有している。それゆえ、ガイア信仰のように、ヒトがそこに何かしらの「系」が成立していると認識する限り、生命らしき振る舞いの「アナロジー(類推)」を成立させる限り、ヒトはいかなる物にでも「生命」の存在を見出すことが可能なのである。

万物に命が宿るとするアニミズム(精霊信仰)などはそれの顕著な例であろう。




生命とは何かという問題、生命の定義に関する問題の解は以上である。

そして、この問題も前章と同様に、我々にとって本当に重要な意味を持つ問題の核心は、生命の答えそれ自体ではなく、誤った論法を導く原因となっている人々の信念と事実との食い違いの中にある。この問題におけるそれはつまり、

人々がそうまでして生物と無生物を分け隔てる何かがあると信じたがる、その理由である。


そこには、生命の尊厳を謳い、自分が生きているという事実に価値を与えようとする者達の葛藤もあるだろう。生物と無生物が実質的に区別されるものではないという事実を受け入れるのであれば、それは、道端に転がる石がそこにあることと、我々がここに存在することが等価であるということを受け入れる事になるのだから確かに残酷な話である。人間至上主義や動物保護運動もその事実から逃避したいがために生じてくるのだろう。これは前節で述べた日常的な死生観と直結する問題であり、それゆえこの点をこれ以上は語らない。ここで露見する問題はもう少し根の深い、さらに重大な問題を我々に投げかけているのである。

それは、生物か否かという論争の的となっている、もうひとつの存在が如実に物語っている。

その存在とは「人工生命(Alife)」である。

人工生命は、進化論の考え方に基づいてコンピュータ内部に造り上げられたシミュレーションプログラムであり、遺伝子を模した数字の羅列が交配を行い増殖し、変異を生じながら世代を重ねてゆく仮想生命体である。トマス・レイの組んだ「ティエラ」というプログラムでは、人工生命の中に寄生をおこなう種が誕生し、さらには寄生体を駆逐する免疫機能を備えた種も誕生している。

一部の学者はこれを本気で生物と見なし、また一部の学者はその考え方を冷笑する。だが、これが意味するのは明らかに、人工生命という存在が進化論の実証であり、そこで生じているのが生命進化史の再現だということである。それは確かに演算処理の結果として画面上に並んだドット絵に過ぎないものではあるが、我々という存在を形作った自然淘汰の法則は、この世界の根底に流れる物理法則の表象であり、それは演算機械を動かしている物理法則と同一のものである。そして進化現象というものは生物個体や遺伝子によって担われるのではなく、情報によって担われるものだからである。情報こそが進化の主体であり、情報をになう構造物は何かに限定されるものではない。構造は全て情報に置き換えることが可能なのであり、現にプリオンは遺伝子を持たずに自己増殖をする。かつてリチャード・ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の中で、自ら考案した「ミーム」(自己複製子)という概念によって遺伝子の概念を情報すべてに拡張してみせたが、人工生命という存在はその説を実証する一例である。

そして現在ではこの他にも、遺伝的アルゴリズム遺伝的プログラミングといった進化論に基づく手法によって、機械が人間の生み出してきたものを上回る独創的な発明品を造り上げているという事実もある。


それゆえ、これらの存在は我々にひとつの考え方を余儀なくさせる。

生命現象が存在する事もその振る舞いも、なんら物理法則の域を出るものではないという事、我々が複雑怪奇で神秘に満ちた存在だと考えてきた様々な物事が、コンピュータによって再現できるほどに至極単調で一貫した物理法則の上に成り立っているという事を。



この「生命」をめぐる問題の要点はもはや明らかであろう。

それは――

人間と同様の振舞いが機械に可能であるならば、純粋にプログラムのみによって動くそれと我々のあいだに違いは存在するのであろうか、全てが物理法則の上にあってその制約の域を出ず、我々は過去から引きずった因果の上で必然的結果を導き出すための判断を下すしかできないのであれば、果たして我々の意識とは何か、感情とは何か、意思や判断とは一体何なのか

我々もまた、遺伝子にプログラムされた命令に従って動く機械に過ぎないのではあるまいか

果たして、我々に自由意思はあるのか――



これが、この問題の核心である。

だからこそ人間は、生物と無生物を隔てる何かが存在することを望まざるを得ないのである。


次に考えるべきことは、我々の意識や感情について、そして主体性という問題である。



’03.7.31



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