第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第1部 心と脳

■ ラプラスの魔物

脳研究の盛んな現代、我々は日々明らかになってゆく精神に関する様々な法則性を目の当たりにする。精神もまた自然の産物であり、そこには自然の摂理が働いている。こころの正体を探るということは自然の摂理と向き合うことであり、その摂理によって導かれる己の運命と対峙することにも等しい。

人間の精神に関する一般的な考え方では、人間は行動を選択決定する能力を持ち、豊かな感情を有す、他の生物とは違う特別な存在であるとされている。だが我々が本当にそのような高尚なものであるのなら、自由なる意志で己の向かう先を選択できるのだとしたら、かような歴史を繰り返してはこなかったのではなかろうか。その点が私が一番疑問に思うことだ。


我々に何が可能で、何が不可能なのか。それを正確に知ることが第一だ。もはや無限の可能性などといった、うぶな考えは持たずにおこう。自然の摂理から目をそむけたり神がかり的な力を信じたりはせずにおこう。それが私のスタンスだ。



運命について語られる場面においてしばしば登場する概念に、「ラプラスの魔物」あるいは「ラプラスの魔」と呼ばれるものがある。これは完璧な未来予測を可能とする存在として想定されたもので、19世紀の初頭に数学者ピエール=シモン・ラプラスが『確率の哲学的試論』の中で述べた以下の一文に由来する。


もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、
かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、
この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、
その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

この完璧な未来予測というラプラスの考え方は、古典物理学にのっとったものであり、現代物理学の考え方では事はこのように単純にはいかない。物理的限界による様々な予測困難性が見つかっている。また未来が固定されたものであったとしても、それを完全に知るという行為はそれ自体、単純なパラドクスを引き起こしてしまう。現実にはラプラスの魔物は存在不可能だ。

だが、ラプラスの魔物のごとき超越的な力を持たぬ我々であっても、単純な未来のことならばある程度のことは分かっているはずだ。この世界には強固な物理法則があり、それゆえ全ての物事にはそれなりの理由があることを我々は知っている。それゆえに我々は過去の経緯に基づいて未来を予測し、予測に基づいた行動をとれる。逆に未来がまったく不透明なものであったなら我々は困窮してしまうだろう。


この章の始めにおいて私は、読み進めるかどうかを考えるように促したが、読むという選択を行ったことにも何かしらの理由があったはず。どれほど自分が思い悩んだ末に選択した答えだと思っていても、現在のすべては過去によって決定され、いかなる選択が行われるのかは、すでに決定付けられていたのではないか?

物理学が導き出した法則が正しいものであるならば、そうあるはずなのだ。脳内で生じている現象がボールの落下運動と等価で語られるのだとしても、そこには何もおかしなことは無い。ボールの落下速度も落下地点も割り出せる。そして脳内で起きていることがまさにそのようなものであるのなら、我々には何事かを選択する余地など無かったということになるはずだ。


この問題は、哲学的な思考を持つ人間ならば、一度ならず考えたことはあるだろう。意識に関する問題においてごく初歩的な問題だ。だが、これこそが人類の頭を悩ませてきた最重要の難問だ。

かのアインシュタインもまたこのように問うた。


「もし、地球を巡る永遠の軌道を完遂する作用において、月に自己意識があったとしたら、月は決然とした決意に従って自分の意志でその軌道上を運行しているのだと、すっかり信じ込んでいたことであろう。

同様に、高度な洞察力と完全な知性とを備え、人間とその所業とを観察している存在が居たとしたら、人間が自分自身の自由意志に従って行動しているという幻想に対して微笑を禁じえないことであろう。

(中略)人はこの宇宙の過程において無力な存在だとみなされることから逃れようとする。しかし、無機的自然界において多かれ少なかれ明らかにその実体を顕す事象の合法則性が、我々の脳内における活動においては機能しなくなってしまうということが、いったい有りうるのだろうか?」
アルバート・アインシュタイン 『ラヴィンドラナト・タゴールへの書簡』より(1)

我々の精神に「選択の自由」が備わっているか否かという問題は、ようするに我々の精神機構において既知の物理法則に縛られない何かが存在するか?という問題と同じなのである。

自由意志が存在するために必要な仕掛けは、容易に実現できる代物ではないし、そこに神秘が備わっていると言い放つには、あまりにも多くの法則性があり過ぎる。



■ 変容する自己

脳には情報処理装置としての様々な合法則性がある。それでも一般的には脳とコンピュータとは違うものだとされており、両者の相違点はしばしば問題にされてきた。それは違うと言えば違うだろうし、同じと言えば同じである。これはそれぞれの何について語るのかの問題だ。

だがまずはそもそもの前提問題として、脳に対する一般的な解釈に潜む根本的な誤りを正す必要があるだろう。我々がコンピュータを行使するように、機能である「わたし」が構造である「脳」を行使していると――どうやらそれが一般感覚であるように思う。だがその考え方は明らかに間違っている。機能は構造の無いところには生まれない。機能を生み出すのは構造だ。脳が「わたし」を生み出しているのであって、決してその逆ではないし、「わたし」が脳を行使しているわけではない。

それは原理的に不可能だ。



脳が「わたし」という存在を生み出す上でどのような機能を担っているかは、脳を損傷した数々の患者の症状から明らかになってきた歴史がある。

脳の前頭葉と呼ばれる部位は、「理性の座」とも称され、理性的な行動の多くがこの部位と関連しているとされている。この前頭葉を損傷したことで有名になったフィネアス・ゲージという名の男は、1848年25歳のときに爆発事故によって飛来した鉄の棒で頬から頭頂部までを貫かれる被害にあった。驚くべきことに彼はそれでも生還したが、それまで真面目で勤勉だった彼の性格は一変し、激情的で無責任で計画実行ができない子供っぽい人間に変わってしまった。そんな彼のことを友人達は「別人になってしまった」と嘆いたという。(1)

また、前頭葉に関するものでは悪名高い「ロボトミー手術」があるが、これを施された患者は無気力・無関心・無頓着になったり、楽天的で空虚な爽快感を抱いたりといった様々な術後変化を見せた。

脳の扁桃体と呼ばれる部位は、情動に大きく関わっていることが判明しており、サルを使った実験でこの部位を人為的に破壊すると、環境内の事物や事象が自分にとって有益(報酬性)か危険(嫌悪性)かの生物学的価値評価や意味の認知ができなくなる。このサルは、通常、見ただけで恐れて逃げたり怒って攻撃をするヘビやクモあるいはネコを見せても、恐れや怒りの反応を示さないどころか、すべて口にもっていき食べようとするし、また、ネコにも平気で近づき、傷つけられる。このサルは、全般的に「食べられるもの」と「食べられないもの」との区別もできず、石ころでも何でも食べようとしてしまう。またネコでは性欲が亢進される症状も引き起こされるらしく、雌雄やサル、イヌ、ニワトリなどの種にお構いなしに何でもかんでも性交の対象としてしまう。この症状は「クリューバー・ビューシー・シンドローム」として知られ、こうしたことが人間でも起こるという報告もある。


また脳の側頭葉も興味深い部位だ。この側頭葉あたりを刺激することでよくある幽霊体験に似た現象を引き起こせることも分かっている。側頭葉てんかんの患者にはしばしば神秘体験が伴うことも知られており、心理学者のマイケル・パーシンガーも磁気刺激装置で自身の側頭葉を刺激した折に、生まれて初めて神を感じたと語っている。(2)


脳にまつわるこうした事例の氷山の一角を垣間見るだけでも、「わたし」という存在が脳に依存し、脳の変化が「わたし」の変化を引き起こすことを理解できる。我々が守ろうとしている「わたし」という存在がいかに曖昧で脆いものであることか。


アルコールや麻薬や向精神薬を用いれば、それは脳に顕著な変化を引き起こして「自分らしさ」を即座に変化させてしまう。カルト教団のニュースによって有名になった洗脳や、また催眠術や自己啓発のたぐいも同様だ。自分が変容するという結果で言えば、歳月を経て生じた変化の原因となった体験全て、教育・芸術・会話といった情報に触れる体験や、病気・事故・老化そして食生活といった構造に直接変化をもたらす体験も、それらのすべては脳を変化させ自分自身を変容させてゆく。

我々人間は、この世界のあらゆる存在と同じく刻一刻と変化している。脳が変化することは「わたし」が変化するということであり、「わたし」が変化するということは脳が変化しているということである。外見も内面も10年前の自分と現在の自分とを比べてみれば、誰しも変化しているはずだ。だがそれでも自分があいかわらずも自分であり続けていると思う、そのアイデンティティーを保持しているのは実に奇妙なことである。それはただ、過去を想起できる記憶と、その記憶の連続性があるからこそ存在し得ているものだろう。

今日の出来事を明日も記憶していると常に信じ、昨日と今日と明日のそれぞれの現実と自分が等しいと信じていなければ、アイデンティティーは成立しない。記憶の中にある自分自身の行動様式が「自分らしさ」であり、人間はそれを守ろうとしているわけだ。


たとえば脳死などになった際には意思疎通ができなくなるため「脳死状態での延命を望まない」といった意思表示を事前に示しておくことを指す「リビング・ウィル」という考え方がある。誰にでも変化のときは訪れる。考えようによっては、そうなった時にはもはや自分自身ではないのだから、どうなろうと知ったことではないと考えることもできるはずだが、それでも我々はそのようには考えず、自分自身が変容することに対してときに多大な恐怖を抱くのが通常だ。それゆえに存在するリビング・ウィルである。

ヒトは「成長」という名で呼べる変化であれば積極的に自らを変化させてゆくが、そうでなければ大概は恐怖か嫌悪の対象として「変化」を拒絶する。

現実は常に揺れ動き、自分もまたその主体性も常に変化せざるを得ないものだというのが事実だが、その事実を受け入れるのはなかなか難しいことだ。


1979年の日本において「ロボトミー殺人事件」と呼ばれる興味深い事件があった。それは事件にさかのぼること15年前、同意無しにロボトミー手術を施された患者が、自分が変容してしまったことの復讐として、施術した精神科医の妻と母親を殺害したのだった。
「自分らしさ」を破壊することは簡単だ。しかしたとえどんなに自分が変容しようとも、それでも自分という存在は常に「現在」に存在し続けてしまう。この事件では記憶の中にある過去の「自分らしさ」と現時点で存在する「自分」とのあいだにギャップがあったことが、恨みを呼んだ。そんな記憶さえなければ自分の中で「自分らしさ」を見比べることなどなかっただろう。


記憶の連続性。ただそれのみが我々の人生をひとつの物語として成立させている。これが重要なポイントだ。だがこの「記憶」というものもまた疑わしいものであることが分かってきている。





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