第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第1部 心と脳 (2)

■ アイデンティティーと記憶

何かを記憶するということは脳構造自体が変化することによってその情報を構造に刻み込むということだ。情報は構造の無いところには存在しえない。

記憶に関するものとしては神経生理学者ワイルダー・ペンフィールドが行った有名な実験がある。

1933年にペンフィールドはてんかん患者の側頭葉を刺激した際に、患者が鮮明な記憶を体感することを発見した。過去にあったと思われる出来事が、今まさに体験しているかのごときリアリティーで再現されたという。

この話は有名なもので、これにより全ての記憶は思い出せなくても記憶の完全なコピーがどこかに眠っているといった仮説や、退行催眠、前世療法といった似非科学の誕生も呼んだ。だが、その後の研究によりこうした仮説が誤りであったことが判明している。 (1)

ペンフィールドが調べた千人以上の患者のうち、記憶のフラッシュバックを報告したのはわずか数パーセントに過ぎず、また脳内の同じ部位を電気刺激してみても、そのつど異なる内容の記憶が報告されたという。またなによりも実際にはありえない内容の記憶が報告されるケースもあった。

退行催眠にしてもそうだ。時には現実以上の圧倒的なリアリティーを伴って、偽りの記憶が創作されることがある。


「記憶の捏造」。これも重要なポイントだ。これは特殊な条件下に限った脳の反応というわけではない。フロイトが唱えた「否認」「反動形成」「抑圧」といった心理的防衛機能によって記憶が歪曲される具体例ともとれる、疾病失認とよばれる症状がある。

これは脳の右頭頂葉に損傷を追った患者が 左腕や左足が麻痺していることを無視あるいは否認するという症状だ。これに関して神経学者ラマチャンドランの興味深い症例に満ちた著書『脳のなかの幽霊』において紹介されている実例が驚異的である。


疾病失認の症状をもったある女性患者の場合では、脳卒中によって3週間前から左腕が麻痺していた。彼女は決して左腕の麻痺を認めず、左腕が動くかと問われても彼女は自信を持って「動きます」と返答をする。この症状をいかにして治療すればよいか悩んだラマチャンドランは、患者の左耳の外耳道に冷水をそそぐことで否認の症状が改善されたという実験報告を見つけ出し、これを患者に対して施した。結果は目を見張るものだった。冷水がまるで自白剤のように作用して、ずっと否認を続けてきた彼女の口から左腕の麻痺を認める言葉が返ってきた。だが冷水を用いたこの反応は長くは続かない。12時間後にもう一度、左腕が動くかと質問すると以前のように「左腕は動く」と返答するようになっていた。そこで冷水の実験を行った際にはなんと答えましたかと質問すると、驚くべきことに、彼女は「そのときも左腕は動くと言った」と答えたのだった。自分が麻痺を認めた瞬間の記憶は、どこかに行ってしまっていた。

同じ症状をもつほかの患者で試した場合もやはり同じ結果だった。そして別の患者に対しては、冷水によって否認が改善されている最中に、以前の記憶を調べることも行った。これまで何度か腕が動くかと質問された際にはなんと答えていましたかと検査官が質問すると、患者からは「毎回、麻痺していると答えていました」という答えが返ってきた。実際には毎回のごとく麻痺を否認していたにもかかわらず。

これは驚くべき出来事だ。ラマチャンドランは語る。それは「 まるで台本を書き直したみたいに。それどころかまるで私たちが、互いの記憶を喪失している別々の意識を持つ人間を二人、作り出したような感じさえした 」と。

冷水治療の最中には「自分が否認していた」という記憶が抑圧され、否認の症状があるときには「麻痺していること」も「一時的に麻痺を認めた」という記憶も抑圧されてしまっていた。 (2)



こうした障害からくる症状は一見して派手で、健常者を自負する人々からすれば他人事のように思えるかもしれない。だが重要なのは我々の脳にはこうした症例に見られる機能が確かに備わっているということだ。決して他人事などではない。

そして少なくとも、我々が常に脳の中で主観によって歪められ構築された仮想世界を現実として生きているのだという事実を、こうした症例は雄弁に物語ってくれる。世界のすべては思い込みによる解釈なのである。


自分が変われば世界の見え方も変わってゆく。アルコールによる酩酊状態、薬物や統合失調症(分裂病)によってもたらされる幻覚、また催眠術によっても現実は捻じ曲がる。

また身近な例としては、シャルル・ボネ・シンドロームという「実際にはないものが見える」症状を呈す患者たちの存在が知られている。これは視覚障害を持った老人にはしばしば見られる症状であり、幻覚が見えるという事実を隠そうとしている人々も数多いと報告されている。ある調査では視覚障害をもつ500人の内60人までもが幻覚を認めている。

このシャルル・ボネ・シンドロームでは障害によって欠損した部分の視界にありありとした幻覚が描かれる。ミニチュア模型のような二人の警官が見えるという患者、ドラゴンや妖精といった架空のものが見える患者、また幽霊のような人影や、子供の姿とともに笑い声まで聞こえる患者もいるという。また脳を損傷した事故直後から幻覚に悩まされていた27才の患者においては、会話をしている博士のひざの上に猿が鎮座しているのが見えていると語った。幻覚のイメージは白黒やカラー、静的なものや動的なものと様々だ。そしてこれらの幻覚はときに現実のものよりもリアルであるという。 (3)


場合によってはここまで世界は創作によって変容してしまう。我々が普段感じている現実やリアリティーと呼ばれるものに、いったいどれほどの根拠があるか。こうした症例によってそれを思い知らされる。これらの患者の症状は後天的なものであり一般的な見識が損なわれておらず、それゆえ自分の眼前に広がる光景が異常なことだと判定したわけだが、もしそのように判定するだけの見識を蓄積した記憶が損なわれたとしたらどうなるだろうか。その際には幻覚と現実をどうやって区別したらよいのだろうか。

認知症(痴呆)となった老人たちはおそらくは、想像を絶する現実を見ていることだろう。



我々は眼球で世界を見ているわけではない。世界は脳の中にある。脳が偽りの情報に踊らされているのだとしても、我々はそれが唯一の現実であると認識して生きてゆくしかない。

映画「 マトリックス 」はこうした人間精神の問題を見事に描いた作品だった。

「現実とは何か?」「それは脳が解釈する電気信号に過ぎない」――作中でそのように問答される。自分の信じてきた世界の記憶が模造品であったことを知らされた主人公のネオは、不安・恐怖・不信・否認といった様々な感情の起伏の中で葛藤し、受け入れざるを得ない現実を前にして嘔吐する。それは自己存在の足場を失った人間の、人間らしい反応だ。

「マトリックス」の主人公が突きつけられた問題はそのまま我々にも当てはまる。その気になって目を向けてみれば、嘔吐にあたいするだけの痛ましい事実はそこら中に転がっている。


おそらくあなたはまだ、この世界に対して嘔吐するほどの居心地の悪さを感じてはいないだろう。

だがそれもこれを最後まで読み終えた頃には変わっているはずだ。

自分が変わらずにアイデンティティーを保ち続けていられると思うのは幻想に過ぎない。



■ サブリミナル・マインド


サブリミナル効果」という言葉を日本において有名にしたきっかけとして、1990年代の世紀末風潮の中で生じた、カルト教団によるテロや洗脳絡みの一連の事件があった。1995年、あるテレビ番組の中でカルト教団教祖の顔写真が映像の中に挿入され、スローで見なければ発見できないほどごく短い時間だけ放映されるという事件が起きた。これが「サブリミナル効果」を生じるとされ、この事件を受けて日本の放送業界はこうした手法を禁止した。

サブリミナル〔閾下(いきか)〕とは、知覚されるために必要な刺激の値(閾値)を下回ることを指し、そうした閾下の刺激を受けた際にも、自覚できないまま知覚が影響を受けることを指して「サブリミナル効果」という。

この効果にまつわる話は有名であり、またこの効果の信憑性を疑う声があることも有名だろう。心情的には後者を支持したい気持ちもわからないではないが、残念ながらこうした精神反応は歴然と存在し、その効果も実証されている。


このサブリミナル効果が非難され、禁止されるに至ったのはなぜか。

一般的観点から言えばこれは自由意志の問題だとされる。自分に生じた変化が自分で選んだ行動の結果としてそうなったのかどうか。そこが問題にされている。

意識されることなく、サブリミナル・マインド[閾下知覚]にのみ影響を与え、人の意識的判断を左右させること――それが人間の主体性を犯すものであるがゆえに行ってはならないという倫理的観点からの判断だ。「教育」なら良いが「洗脳」は駄目というのも同じ論法によるものであろう。

だがたとえば、幼児教育や胎教という行為に当人の主体性はあるのだろうか?またたとえば我々のもつ本能的な行動は、自らの意志で主体性をもって選択したものだろうか?

残念ながら、答えは否だ。

本能には我々の人格者としての主体性はなく、それゆえ意識的な操作は不可能だ。それは本能だから仕方ないと人々は言う。またヒトは他の生物とは違って本能を抑止する理性をもった特別な存在であると人々は言う。かつて哲学者のカント(1724~1804)もまたそのように考えた。この考え方が今では一般には主流となっているが、残念ながら、カントの考え通りに理性という概念で我々の自由意志が保証されるわけではない。


行動選択の際に「こうしたほうが良い」と考えること、それが理性の行っていることであろう。ならばそれは要するに利害判断に他ならない。だがその利害判断はいったい何に依拠しているのだろうか。物事の正誤や良悪の判定基準が何であるかについては、既に第一章において明確にした。正義の中身、その正体が何であるかはもはや明白だ。ためしに今、自分自身に問うてみればいい。何かを行為する理由について「なぜ、なぜ、なぜ……」と自問を繰り返す。たとえばこうだ。


  私はなぜ、この文章を読んでいるのだろうか?
      「この分野に興味があるから」
  なぜ、この分野に興味があるのだろうか?
      「幼児体験のせいかもしれない」
  ではなぜ興味があるということでこれを読むのだろうか?
      「知ることで好奇心を満たせるから」
  好奇心を満たしたいと思うのはなぜだろうか?
      「………成長するために」
  成長しようと思うのはなぜ?
      「成長して豊かさや幸福を手に入れるためかな」
  なぜそうなりたい?
      「………」

とても簡単なことだ。我々の行為はすべて欲求の上に乗っかっている。また我々は欲求を満たすために行為するその行為が選択される過程について、あまり意識できてはいないし、選択それ自体もまた欲求によってなされている。そして我々はその欲求を自分でコントロールしてはいない。


我々が大切にする「自分らしさ」というものは「自分」で選び取ったものではなく、その舵取りすらままならない。一般倫理において重要視されている、自分に生じた変化が自分で選んだ行動の結果としてそうなったのかどうかという点は、ただ単にそう思い込んでいられるかどうかの問題に過ぎない。



「 『 私が腕を上げる 』 から 『 私の腕が上がる 』 を差し引くと何が残るか? 」

ウィトゲンシュタインによる設問だ。この問題の答えは「意志」となるのだろうか。

事実はもう少し複雑だ。





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