第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第1部 心と脳 (4)

■ 0.5秒の遅れ

当時すでに動作にはそれに先立って、脳内で動作の準備が行われていることを示す
<準備電位>と呼ばれるものが見つかっていた。
情報を処理するには計算する時間が必要だ。脳が動作を行うための計算中であることを示すのが<準備電位>である。そしてこの<準備電位>が、行為に先立つ1秒も前から発生しているというデータもあった。

神経生理学者であるベンジャミン・リベットはこれらの発見に基づいて、あるひとつの
疑問をもった。その疑問とは「自発的な動作を行おうという意志も、同じ程度までさかのぼって準備されるのか?」ということだ。


これは当然の疑問だった。我々の自由意志、我々は意識的に自らの行動を決意している――ということを日常的な感覚で考えるならば、1秒という時間はあまりにも長い。それは絶対にありえない。たとえば「ジャンケン」にしても次の手を決意してから、それを行うまでに1秒はかからない。ましてや意志決定それ自体の1秒もまえに意志決定の準備をしているなどということも考えられない。1秒もあればジャンケンは前の前の回まで遡れてしまう。


リベットはこうした疑問を解消するための巧妙な実験を行った。

行為を決意する意識が生じるその過程で何が起きるのかを調べるために、被験者には「気が向いたときに手を動かす」という課題をこなしてもらい、「いつ決意を意識したか」を報告してもらうという簡単な実験だ。

この実験に際していくつかの装置が用意された。手や指が動いた時点を記録するために、被験者は手の電気活動を測定する装置をつけた。また脳に〈準備電位〉が現れる様子を記録するために、被験者の頭には電極が取り付けられた。そしていつ行為を決意したかを報告させるために、慎重な方法が用いられた。口答で「今です」と報告するのでは時間が随分と遅れてしまう。そこで被験者には時計の代わりとして円を描いて動く点が映し出されたテレビ画面が見せられた。この時計では点が2.56秒で一周をまわる。決意を意識したときにその点がどこにあったかを答えさせることで、かなり精確な時点を特定できる。 (1)

いよいよ準備が整った。実験が行われたのは1979年のことだ。20代の学生5名を対象として行われたこの実験によって「こころ」という存在の謎を解く重要な答えが見つかったのだった。



この実験の結果から、我々が行為を決意する際に何が起きているのかが明らかとなった。

脳の<準備電位>が観測されたのは行為の0.55秒前だった。これが被験者の手が動き始める準備をし始めた時点である。つまり、被験者が自分の意志で自発的に行為を決意して、行為が実行されたのであれば、どう考えてみても<準備電位>の発生したこの時点かそれよりも前に、意志決定をしたことを被験者は報告しなければならない。

だが、実際に被験者が行為の決意を意識した時点として報告したのは、行為の0.2秒前、脳が起動し始めてから0.35秒も経過したあとの時点だったのだ。 (1)

何かを実行したいという欲求が意識的に感じられるよりもかなり前に、脳はそのための準備を始めているのである。リベットはこう語る。「結論を言えば、本実験で調べたような自由意志による自発的行為でさえ、脳レベルでは無意識のうちに始動しうるのであり、また、現に通常、始動しているのだ。」 (2)

もう一度、言葉を換えて繰り返しておこう。

行為を決意しているのは意識ではない。行為を決意するのは無意識なのである。したがって、意識には行為を先導する力などなく、自由意志は成立できないことがこの実験により明らかとなった。


脳は我々を欺いている。




これが真実だ。

もしあなたがこの実験にまつわる話を初めて聞いたのであれば、存分に驚いてくれて構わない。

むしろそうでなければ奇妙なことだ。これは、紛れもなくあなた自身に関わる問題だ。

怒りや嫌悪感をあらわにして反論材料を探すのも人間らしい反応だ。

この実験結果が公表された当時は、多くの学者が自由意志が成立するための逃げ道を探し、様々な反論を試みた歴史がある。たとえば「自由意志は無意識のほうにあるのではないか」といった反論もあった。だがそれは妙な考えだ。意識できない意識的決定というのはありえないだろう。

そして残念ながら、いくどもパターンを変えた実験が多くの学者の手で繰り返されており、そしてそこから得られた結果はこの実験結果を肯定するものだった。


前世紀の発見なのだから既に知っている人間も少なくはない。研究者ならば特にそうだ。だがこの事実はほとんど語られてはいない。この問題に触れる出版物でもその書面のわずか数行を使って紹介する程度のことをしているものがほとんどだ。誰しもこの問題にはあまり触れたくないのだろう。これはフロイトの提唱した「抑圧」の心理的防衛で説明がつく。これもまた無意識のなせる機能のひとつだろう。

我々の現実を牛耳っているのは意識ではなく無意識である。



■ 禁じられた真実


第一章『争いの理由』、第二章『事実と価値の関係について』、第三章『生命をめぐる問題の解』。

これまでの章では、人類が歴史の中で何を行ってきたのか、そしてそれがいかなる生物界のルールの上で動いていたかを私なりの視点で語ってきた。私個人の主観を抜きにしても決して否定できない主観的現実と真実との大きな乖離があることを見出せたはずである。


禁忌の領域を覗き見ると、一般的見解とは大きく異なった、もうひとつの現実が見えてくる。 そしてこの禁忌の領域にある現実こそが、より真実に近い世界像を与えてくれる。なぜならば、真実は痛みを伴うものだからであり、それゆえに禁忌として追いやられてきたからである。

冒頭付近で紹介した奇妙な病状の話だけならば、まだエンターテイメントとして成立しうるだろう。だがそこから先はもはや禁忌の領域に属するものだ。それらは決して公にされることのない物語として、無意識の隅へと抑圧されてゆく。


我々には自由意志が無い。それはあまりにも残酷で悲惨な真実だ。

だがそれを真実として受け入れてみれば、あまりにも多くの事象に説明がつく。

なぜ我々がかような歴史を歩んできたか。なぜこうも人間の振る舞いが類型的なのか。


我々の意識はこの仮想世界の物語の中で、己が主人公であり己の意志と決断によって物語を展開していると感じている。だがそれがまやかしである事はとっくの昔から分かっていたはずだった。向精神薬の登場や、洗脳や催眠、サブリミナル効果、そして遺伝システムの存在。この100年のあいだに相次いだ発見によって、人間という存在は「心」も「体」もずいぶんと機械的に動いているということが明らかとなった。そして実際に人間をロボットのように操作することも行われた。

話はこの100年に始まったことではない。誰しも人間が機械的に振舞うことを前提としてコミュニケーションを取っているはずである。芸術もまた然り。人が他者と感覚を共有すること、共感できてしまうという事は、よくよく考えてもみればとても恐ろしい現実である。

それは我々がどれほどまでに類型的で機械的であるかを如実に物語る。


リベットの実験結果ひとつを取って、それを信じるか信じないかというレベルの話はもうお仕舞だ。リベットの研究成果はこれまで用いられてきた数多の詭弁を蹴散らしたに過ぎない。

「こころ」を理解するために一番必要なのは、あなたが「自分自身」と向き合う事ができるかどうかということである。

我々が後生大事に守ろうとしている「わたし」という存在の正体。その答えは、それを知ろうとする者にはもはや手の届く場所に用意されている。


私がこの一連の論考のサブタイトルとして「Forbidden Paradox」(禁断の逆説)と銘打った理由を今あなたが体感できていることを願う。




「こころ」とは何か。「私」とは何か。なぜ意識が存在する必要があるのか。

冒頭でも掲げたこれらの問題には、まだ解いていない問題が残されている。また主観的時間のずれに関する謎も新たに生じている。だがあとは此処で見出した答えを手掛かりとして、残されたパズルを解いてゆくだけだ。


ひとまず「こころ」に関する一番重要な問題には答えを出した。

これをもって第四章第一部を閉じ、残された謎解きは第二部に譲ることにする。





HOME
> 禁じられた真実
更新履歴
論考
箴言集 ’08.05
雑記 ’07.04.19
研究
事典
掲示板 ’16.12.05




当サイトについて 著作権・リンクについて