第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第2部 心の役割 (2)

■ 心の時間


もう今ならば我々はこれまでとは違った見方で「心」というものを捉えることができるだろう。

これでようやく自分の心を冷静に分析できる。そして新たな視点からいくつかの謎と課題が見えてくる。


リベットが行った実験の結果にはまだ謎が残されていた。それは情報処理にかかっている時間のことだ。情報を処理するには時間が必要であり、実際にどうやら、我々が意識している世界は少なくとも0.35秒程度は遅れている。だが我々は常に、今をリアルタイムに生きていると感じている。ここには奇妙な矛盾がある。そしてリベットはこの点に関しても巧妙な実験を行い、何が起きているのかを明らかにした。

結果から述べておくが、どうやら意識は主観的時間を繰り上げているようなのである。実際に意識的経験が発生するのは出来事からおよそ0.5秒を経た時点であるにもかかわらず、主観上では0.5秒前のまさにリアルタイムで世界を感知しているかのように体験されているようなのである。 (1)

また脳が我々を欺いている事柄が見つかった。実験の中身については専門的な内容になるので割愛するが、この「主観的時間の繰り上げ」そのものはそれが真実であっても特に不思議はないだろう。

情報処理には計算時間が必要であり、それゆえ我々は決してリアルタイムを生きてはいないのだ。我々が見ているのは既に記憶となった世界なのである。だが我々の主観はそのようには感じない。情報処理の過程で記憶が捻じ曲げられていることに、我々は気付いていない。

分離脳患者の実験では、患者は自分の行為に気付いた後になってから自分の行為を説明するための物語を作り上げていた。それも自発的な意志がそこにあったという主観までをも含んだ作話である。だが実際に行為を先導していたのは無意識であり、ずいぶん後になってから記憶が作られていた。


意識上の世界と実世界とのあいだで時間の流れ方に違いがあることを明快に示す実験がある。

心理学者の下條信輔らが行った実験によるもので、脳の視覚野を磁気的に刺激することで、視野の一部を欠損させて視界に穴を開けられることが分かっていた。そこで、被験者には「赤」「縞模様」「緑」という順で視覚刺激を提示し、縞模様は八〇ミリ秒だけ提示する。その縞模様を見せているあいだに磁気刺激を行い、見えている模様の一部に穴を開けると「被験者は何を見るか」という実験が行われた。

実験の結果はこうだ。被験者はその空いた穴を埋め合わせるようにして、縞模様よりも後に提示されたはずの「緑」が穴の中に現れるのを見た。「縞模様」の後に「緑」を提示しない場合では、この「緑」が欠損した視野の中に現れることはない。

これは一見、未来の情報を感知してしまったかのようにも思えてしまう。だがこれはそれぞれの情報処理が完了する時間が同じではないことによって生じる現象なのである。少しばかり複雑な刺激である縞模様よりも緑の方が脳の中で認識が完了するまでの時間が短い。そのためこの実験においては「縞模様」を認識完了するタイミングと、後からきた「緑」を認識完了するタイミングが丁度重なったことで、後から提示されたはずの緑が、縞模様が見えている時点で見えてしまったわけだ。 (2)

この実験結果からも分かるように、主観的時間の流れは実世界よりも遅れているのであり、また主観的体験における時間軸上の前後関係も実世界のものとは少々違っているのである。

我々は決してリアルタイムを生きてはいない。主観的世界はただ記憶のみに依存するものであり、その記憶の中に流れる時間はあまりあてにならないものである。


こうした実験によって、「こころ」を理解するための重要なキーワードが随分と出揃ってきた。



■ 選択と多様性

「こころ」が存在する理由を知りたければ、こころの存在が「生存率」を向上させるために、どのような役割を果たしてきたのかを考えてみればいい。

「生き延びたものだけが、生き延びる」。これが、ダーウィンが明らかにした進化の真髄だ。そして生物である我々のこの身体は、自然状態での選択圧によって形成されてきたものだ。構造と機能は等価であり、なんびとたりとも因果からは逃れ得ない。意識が存在する理由のいくらかは進化史の中に見出せるはずだ。


心の役割とは何か。

まずは心の役割の中でも我々が最重要と考えてきた「自由意志」について考えてみよう。この幻想が誇張されてきたことの一因としては、冠された「自由」という言葉の響きにも問題があるように思う。さすがに自由意志幻想をまるきり信奉する者であっても、精神に無限の自由度があるなどとは思わないだろう。我々の日常的な実感からしても、せいぜい数パターンの選択肢の中からどれかひとつを自分が「選択している」という実感があるだけだ。我々がそうあることを望み、また実際に脳が必要としているのは、限りなく自由な解釈などではなくて「選択」である。


ではこの「選択」という機能はつまり、一体何なのか。

我々は選択が必要な場面においてしばしば悩む。それは我々が未来の可能性について考え、どうする事が最も自分の利益となりそうかを想像するからだ。そのシミュレーションの結論を出すことが難しい時ほど我々は思い悩む。

『利己的な遺伝子』の中でリチャード・ドーキンスはこう述べる。「意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう」。 (1) この一文にある「完全」という表現には語弊が生じるかもしれないが、ドーキンスが言いたいことは要するに、シミュレーションそれ自体が、自分がシミュレーションを行っていることを理解する必要性が生じたときに、意識は発生するだろうということだ。

これは必要十分条件ではないが、必要条件としてはおそらく正解だ。我々は自分の思考がかならずしも良い結果をもたらすとは思っていないはず。それは自分の考えが、考えられる可能性のシミュレーションの内からひとつを採択しているに過ぎない事を知っているからだ。そうでなければ我々は悩む事など無い。


一般的に意識を持たないだろうとされている数多の生物においては、そうした悩みを体験している様子があまり見受けられない。だが我々は現実や未来の可能性についてあれこれ思いを馳せることができる。だからこそ、人類は他の生物よりも自分たちのほうが自由度が高いのだと自負し続けてきたのであるし、そして実際に我々は複雑多様な存在だ。

しかし、この行動選択肢を数限りなく広げてゆくには、すべてを本能に刷り込むやり方ではすぐに限界がおとずれる。これがいかに難しいものであることか。それは人工知能開発の歴史の中で明らかになった問題だった。「フレーム問題」として知られる問題である。

たとえば人工知能に白線の上を歩けという指令を出しても、白線の上に何かが置かれていたり、白線が汚れていたりして「厳密な白線」の定義にそぐわないといったように状況が少し違っただけでも、この脳の粗悪な模造品では右往左往してしまうことになったのだ。これは水槽の透明な壁を理解できない魚の行動にも共通するところがあるだろう。

状況が複雑であればあるほど本能に刷り込まれた行動だけでは生存に失敗する可能性が高くなる。かと言ってあらゆる状況への対応策を本能に刷り込もうとすれば無限の容量を持つデータベースが必要になってしまう。与えられた「枠組み」の中でしか動けない、これが「フレーム問題」だ。

したがって、生物が生存能力を高めてゆくには後天的な学習によってそれぞれの環境に適応してゆく事が重要になるわけだ。仮想世界を固定せず、学習によって環境変化に見合った行動選択肢を用意すること。それが生存率を向上させる役割を果たす。

学習した内容に基づいてシミュレーションを行い、そのシミュレーションによる予測と利害判断に基づいて、どの可能性を採択するか。それが選択だ。


さて、このシミュレーションや学習の部分に割かれる脳力を伸ばすことによって、我々人類は史上初であろう複雑性と多様性を獲得することができたわけだ。大雑把に見れば我々の行動は類型的ではあるが、細かく見ればやはり独りひとり違っている。


我々ホモ・サピエンスには著しい個体差が生じている。

これが次なる謎の答えへと繋がるキーワードだ。





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