第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第2部 心の役割 (3)

■ アイデンティティーの役割

学習による多様性の獲得が人類の生存確率の向上に多大な貢献をした。だがそこには新たな厄介事の種もある。

我々は生存競争を生き延びるために、これまでもずっと世界を理解しようとしてきた。状況が複雑であればあるほど高い学習能力が必要だ。だがそれゆえ皆が学習に力を入れはじめたことによって、さらに状況が複雑になってしまった。本能に従って動くだけならば隊列を乱す者はいない。昆虫などの世界はとてもシンプルだ。だが皆が皆それぞれ異なるシミュレーション用の学習を積んできた我々の場合は違う。皆が異なる考え方を持ち、それぞれの仮想現実を生きている。それゆえに我々はお互いを理解することが困難になってしまっている。

この同族内での理解の困難さという問題が、アイデンティティーの問題と重要なかかわりを持っている。


第一章の「正義の中身」で明らかにした事を思い起こしてみればいい。我々にとって理解できない事柄というのは、自分の生命を脅かす可能性を秘めた不安材料である。それは未来をシミュレートするための計算ができなくなるからであり、未来予測ができないのであれば我々は利害判断の根拠を失ってしまうからだ。

これを解決するにはどうしたらよいか。

解法はひとつ。それはこれまで通り、そこに一定の法則性を見出すことで、あるいは法則性を創作する事でシミュレーションを無理矢理にでも実行可能にするしかない。不安はそうした方法でしか拭い去れない。

つまり、この場合に必要なのは、状況を複雑にしている張本人である他者に対して、法則を当てはめて人物像を作り上げること。


 「私はこう考えるが、あなたの考え方は私とは違う。」
 「私とあなたは、この点で共感できる。だからあなたもこう考えるだろう。」……――

これは日常的な実感として理解できるはず。このように我々は他者に対して様々なルールを当てはめているのが通常だ。だからこそ我々は、自分の中にある誰かの人物像が豹変してしまうような事態が起きると、計算ができなくなってとても困惑してしまう。前頭葉を損傷したフィネアス・ゲージのことを友人たちは「別人になってしまった」と嘆いていた。周囲の人間は扱いに困ってしまった。我々は「この人はこういう人物だから、このように相手をしよう」と考える。お互いのコミュニケーションを円滑に行うためにも、互いが自分のアイデンティティーを明確にしておくことが重要なのだ。占いや性格診断に需要があることもそうだ。我々は自分のシミュレーションをより精確なものにするために、アイデンティティーに関する情報をかき集めようとする。 それが時には強引な方法となり、「あなたはこうあるべき」という風になる。教育というのが正にそういうものであろう。

こうした理由ゆえに人物像を勝手に書き換えてしまうような事柄は、社会生活を機能させるためにもあってはならないとされてきたわけだ。それは洗脳然り、記憶喪失然り、向精神薬もまた然りである。

我々は自由でありたいと願いながらも、実際に自由になったとしたらどれほどの混乱が生じる事か。 そして人間が混乱の中でとてつもない不安にさいなまれるであろうことは目に見えている。


なぜ脳がアイデンティティーを保持することに固執していたのか。その理由がようやく見えた。

人の脳がアイデンティティーを確立させようとする一番の目的は、コミュニケーションを円滑に行うことにある。


それは個人の為というよりは、まずは社会の為のものだ。だからこそヒトは世間体を重んじ、また死後の名誉などのように死んだ後にも、自分の人物像がどのように扱われるかを気にするのであろう。



■ 受動的な意識の役割

我々の「こころ」の機能は基本的に、子孫を残すことや自身が生き延びるために存在するものである。それが、我々が生物として背負った宿命であり、実際にも我々はそういう事ばかり行ってきた。いくら人類が学習による自由度を得たといっても、基本的には生存をないがしろにする程の勝手な振る舞いは許されていない。そして我々自身も己をルールで縛り付けておかなければ社会生活がままならないということが分かってきた。皮肉な事だが、我々は主体性を放棄することも同時に望んできたわけだ。


脳は情報処理装置として、インプットされた情報を加工して仮想世界の中に表出させている。そうやって創作された我々の住むこの仮想世界も、この仮想世界を作っている脳も、本来的に受動的なものである。我々は意識的にこの仮想世界の姿は変えることはできないだろう。テーブルの上の「赤い」林檎を「青く」見えるようにしようと思っても無理なことであり、美味しいと感じる代わりに悲しみを感じようとしても無理である。自分のアイデンティティーにそぐわない行動を選択することも極めて困難だ。

そもそも生物の歴史そのものが受動的なものなのであったことは既に別の章で見てきただろう。環境が我々をこのように作り上げてきたのであって、我々がこれまで自分の意志で行っているのだと喧伝してきた様々な行動も、自分で作り上げてきたわけではない。我々の価値観も需要があるところに供給として構築されてきたものだ。


我々人類の行動は受動的であり、精神世界は錯覚に満ちている。

脳は我々を欺いている。今や我々はそれを理解した。


心の役割を色々見てきたが、「意識」の役割だとされてきた事柄の殆どが「無意識」の働きだった。

だがここに疑問が残る。この主体性の無いまるで傍観者に過ぎない意識が、それも自分が傍観者ではなく行為の実行者であるかのような錯覚まで伴って、このように存在するのはなぜか。

生物学的な観点からすれば、そのような何もしていない機能が多大なエネルギーを消費してまで存在を許されるはずが無い。稀には何か他の機能の副産物として生じている可能性も無いわけではないが、さすがに我々人類の生存活動の中心にあると考えられているものが、何の実利的な役割も果たしていないという可能性は少ないだろう。だとしたら、それはいかなる役割か。


分離脳患者のことを思い出しながら、もう一度おさらいしておこう。

思考の主体である脳は絶えず変化し、それに伴い自分という存在の内実も変化している。だが、我々の脳は、自分がどれほど変容しようとも「いま・ここ」にある意識を自分だとみなす。

我々のアイデンティティーは記憶に依存するものであり、そして我々の脳はアイデンティティーと主体性の錯覚を保守するために、少々強引に記憶を捏造してまで、あくまでも自分の行動は自分が主体的に行ったものだとみなそうとする機能を持っている。

アイデンティティーは刹那の幻に過ぎず、自分という存在も記憶も認識されるそのつど創作されていると、そのように表現しても決して過言ではないほどだ。


ところで、我々が物語を記述するときに用いる文法には、「人称」というものがあるだろう。 「わたし」は一人称で、「あなた」は二人称、「彼」は三人称だ。では分離脳患者の左手を動かしたのは「誰」だったのか? 我々はこれを説明する「人称」を持っていない。

意識はつねに一人称であるが、この一人称を語るものがもうひとつある。

それが我々の「記憶」である。


記憶をたぐり寄せてみると分かるはずだが、想起される記憶は(創作であるにせよ)意識化された出来事に基づいた事柄だ。そしてそこには既に、情報が取捨選択されきちんと因果にそって加工された状態の物語が出来上がっている。たとえば、「昨日、私はベートーヴェンのピアノソナタを聴いて感動した」といった形式で記憶も意識も整えられている。

曲がベートーヴェンのものであることを記憶から探り出してきた過程も、音楽が聞こえていることと感動していることの因果関係を結びつけた過程も、我々の意識は把握していない。意識上にあるのは既に記憶として保存される最終段階にまで加工された情報である。

学習や複雑な仮想世界を組み立てるためには、情報の取捨選択による簡略化がどうしても必要だ。一年分の記憶を思い出すために一年を費やすわけにはいかないだろう。シミュレーション計算のコストを下げることと、計算速度を上げるためにも、情報量は少ないにこした事はない。

意識と記憶という風に分けて話を述べてきたが、そもそも我々の生きている世界は0.35秒ほど遅れていて、意識は既に記憶となった世界を見ているわけだ。意識そのものが記憶とほぼ等しい。

意識にも記憶にも、そこには解釈の可能性が1つにまで絞り込まれ完成された物語があるだけだ。


そこで意識に関する疑問を考えてみよう。

ここまで来ればもはや考えられる可能性はだいぶ絞り込まれている。

この問題を解く重要なポイントは2つの錯覚だ。


・ 「わたし」はリアルタイムで現実を生きているという時間の錯覚をしているが、実際には実世界よりも遅れた仮想世界の中にいる。

・ 「わたし」は自由意志に基づき選択判断しているという主体性の錯覚をしているが、実際には自由意志は成立していない。


これはまるで、そう、小説の主人公になりきっている物語の作者のようなものではないか。

だとしたら、目的は「物語」を創ることにあるのだろうか。

物語の書き手が、あたかも自分自身の問題であるかのように「一人称」を行使する必要性があるのはなぜか?

ここに現実の小説をアナロジー(類推)として用いて考えてみると、ひとつの可能性が見えてくる。


それは即ち、それが「臨場感」を創作するための手法だということだ。


我々は学習に重きを置く生物であり、学習して得られた記憶を掘り起こしてきて自分の行動の判断材料としている。我々がそのように記憶を頼りとして世界を生きているからには、その記憶が一人称以外で記述されていたとしたら、それはおかしなことになるのではなかろうか。

アイデンティティーは記憶に依存する。それは自分自身の物語が書かれた小説を記憶として呼び起こしているにも等しいことだ。それなのに恐怖も喜びも他人事のように、記憶されていては困るだろう。

生物としては、血肉すべて含めたものとしての「統一された自己」を守ってゆかねばならない。 それなのに記憶の書記官が0.5秒も遅れた世界から傍観者として出来事を記述するわけにはいかない。あくまでも書記官自身が一人称で「アイデンティティーを有した自分」が行ったこととして記憶を記述しなければならない。


そう考えると、分離脳患者の見せた反応が理解できる。

無意識の自分が行った行為を、記憶として記述できる一人称の形式に当てはめて、また物語としての体裁を整えるための適当な因果関係を見繕う。そのようにして記憶は捏造される。


これで全てが繋がった。





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