第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第2部 心の役割 (4)

■ 拒否権・クオリア

ただそれでも、記憶の観客が必要なのかという点で、まだ何か釈然としないものが残るかもしれない。結局のところ記憶を掘り起こしてきて判断しているのは、人称で表すことのできない無意識なのだ。

実は、これに関してベンジャミン・リベットはある可能性の存在を提唱している。それは「意識には拒否権だけは与えられている」という仮説である。行為の決意が意識上に現れたあとでも、実際に実行されるまでのタイムラグに、行為が実行されることを拒否する自由だけは与えられているという可能性だ。これは実験的にはまだ明確にはなっておらず、またこの仮説についてリベット自身も「拒否すら無意識による先導が必要である可能性」を認めている。

拒否権があったとしても、我々が何かしらの選択を拒否する根拠(価値判断)は因果を含むはずだろうから私はこの仮説を支持はしない。ただ、意識に何かしらこのような最終的なデータ処理の権限が付与されていると考えることができるならば、観客は検閲官に格上げされ、行動をリアルタイムでとらえて監視する必要性が見出せる。

ともあれ色々と難を含んだ仮説ではある。


もうひとつには、クオリア(質感)の問題としてこれを捉える考え方もできるだろう。

感情や感覚に関してはそのメカニズムが随分と解明されてきたが、なぜそれを主観的に感じる必要性があるのかという点に関しては、もはや推測の域を出ない。ただそれが必要とされた進化上の理由を考える事で、漠然とだがその存在理由は見えてくる。

クオリアは主観上にある様々な感覚や感情の機微に関する感覚情報だ。たとえばあなたは足の取れた昆虫を見て、彼らは痛くないのかと不思議に思ったことは無いだろうか? その答えは、昆虫と哺乳類とでは生き方に違いがあるということだ。苦痛に身をよじらないことで生き延びる方法もある。クオリアの問題の核心は此処にあるはずだ。

感覚はきわめて少ないパターンにまで絞り込まれた抽象的な情報だ。豊かな感情と表現されるが、喜怒哀楽と言うように感情にはたった数パターンしか存在していない。情報量は少なく、情報価値は高い。保存されるデータ形式としても、伝達されるデータ形式としても有用だ。これを主観上で感じる必要性に関してはおそらくコミュニケーションの上での共感能力がこれに関与しているように思う。実際に我々は理解できない外国語を耳にした場合でも、発話している相手がどのような感情で話をしているのかだけは極めて正確に受け取る能力がある。

メカニズムに関しては謎が多いが、それが判明するのは意識の中核が発見されてからになるだろう。



まだまだ謎は尽きず、細かな疑問を掘り起こせばきりが無い。そして此処に記してきた事柄にも、もしかしたら何処かにとんでもない思い違いが潜んでいる可能性はある。

絶対性や証明を断定するにはあまりにも我々の知性は不完全である。いかなる知識もそれを解釈するのは、我々のあやふやな脳なのであり、いかなるロジックにも限界はある。

だが重要なのは、何を目的として知識を追い求めるのかということである。リベットの実験もひとつの考えるきっかけとして紹介しただけであり、信憑性の問題は二の次だ。私が最も明らかにしたかったのは、科学的に構造を解明する事ではなくて、我々が結局のところ「何をしてきたか」、そして「何をしようとしているか」についてである。

「私たちが行ってきたのは結局こういう事だろう?だとしたらそこに主体性があると言えるのか?」

私が問題にしてきたのは常にこの点だけである。そしてこの問題はあなた自身が自問して、私の出した結論の正誤を検証すればいい。


ひとまず此処での「こころ」の謎解きはこれでお仕舞いである。



■ 神話の終焉

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言がある。そしてまた「歴史は繰り返される」という格言もある。人類ははたして歴史に学ぶことができているのだろうか。

とてもそうは思えない。禁忌の存在がそれを如実に物語っている。


真実は残酷である。そしてそれ自体、ありふれた真実である。日常の中で触れる些細な出来事でさえも、言葉に直して改めて考えてみればとんでもない事実だと気付く。そんな事柄はいくらでも転がっている。だが誰も声高に語りはしないし、気付かぬ振りをしている方が幸せでいられる。

人は基本的に自分が信じたいことを信じようとする性向を持つ生き物だ。そして嫌な出来事を忘れる事もできてしまう。だからどれほどに衝撃的な発見でさえも忘却され、あるいは踏襲されることなく世代が替わり、そして同じ日常、同じ歴史が繰り返されてきた。

真実はまた闇に包まれる。


人が平均して数十年でその生を閉じるものとして作られているのには、そうした理由も関わっているのではないかと思う。我々の細胞にはヘイフリック限界というものがあり、どうやら細胞にはそれを使い切れば死んでしまう「細胞分裂の回数券」のような物が、わざわざ設定されているふしがあるからだ。

「学び過ぎてはならない。それはしばしば本能の邪魔をして生存を脅かす。」……―― そんな声がどこかから聞こえてくるかのようだ。 (※注)

重要なことを学び得た頃には余命幾許も無い。だからこのようにも考えてみる。

もし仮に人類が不老不死であったとしたらどのような歴史がもたらされていたであろうかと。

もし人が歴史から学び続ける事ができたとしたら、どれほどの精神性が培われる事だろうかと。


今から遡る事およそ2500年も前の時代、仏教の開祖として知られる釈迦牟尼(ブッダ)はある教えを説いた。

『 諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静 』

(しょぎょうむじょう しょほうむが いっさいかいく ねはんじゃくじょう)

―― 世界は変化し続ける存在である。この世界は法則に基づいて運行しており、自分という主体は幻である。そして世界が苦痛に満ちているのは当然のことである。それを受け入れることができた時、心の静寂であるニルヴァーナ(涅槃)の境地に到達できる。 ――

正統な仏教は「あの世」の存在も認めていない、きわめて唯物的な見方をする宗教である。厳密な話をすれば釈迦の教えの解釈はひとつではないし、上述の一文は私による意訳だが、ただそもそも東洋における自然との調和を求める思想は本来、現代で思われているような自然保護のための思想などではなくて、それは自然の摂理を受け入れるその心の調和のことを指していたはずだ。


これほどまでに古い時代から、こうした思想は芽生えていた。

脳に関する知見も無いその時代に、ブッダがいかなる発見に基づいてそのように考えるに至ったのか。真実に迫れるか否かは心の在り様ひとつで決まる。それがこうしたことからもうかがい知れる。

そして仏教とその分派の歴史を辿ってゆけば、禁忌が封印された歴史と、人々が信じたい事柄を盛り込んだ教義へと変遷してきた歴史が見える。

また、「無我」や「忘我」を最終的な境地として目指すという思想が、仏教に限らず様々な文化のなかに遍く息づいていることもひとつの現実だ。それは、長年にわたる知識の習得の末に、真実を前にして目を背けることも出来ず、自己存在を卑下して苦笑いするしかなくなった自己、苦痛に張り裂けんばかりの自己を守る、唯一の方法だったからなのかもしれない。


ただ、私は仏教徒ではないし、無我や忘我に価値を見出しはしない。涅槃にも興味は無い。

たとえそれがどれほどの叡智であったとしても、結局のところそれでも我々の運命は変えられなかったのだろう?

先人の偉業は、それはそれとして、我々はさらに先を行くことを目指す。

だから我々は今此処に立つ。


もしもあなたが「絶望」を欲して真実を追い求めていたのなら少し話は違ってくるが、だがそれもおそらくは強すぎる希望の裏返しだったのではなかろうか。


メタフィリアは超克を諦めない。


知っている者だけが選び得る新たな選択肢が用意されている。

そしておそらくは唯一の「法則のほころび」がそこに存在し得る。

それはまだわずかな可能性の光に過ぎないが、試してみる価値はある。


第三部では「心の未来」について述べていく。





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