第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第3部 心の未来 (2)

■ レジスタンス

「あなたはちょうど一分後に、絶対に咳払いをします」と、このように予言されたとしたら、我々はその予言に反発して「絶対にそれはしないでおこう」と考えるだろう。

およそ人間は自分が何物かにコントロールされる事を嫌う。これもまた人類が多岐にわたる行動選択肢を有しているひとつの理由であると思う。


ただ、こうした予言の矛盾に着目して、だから未来は確定しないとか、我々は自由だといった主張もたまに出てくるが、それは少々短絡的な考えだ。

未来が確定している可能性は高い。未来予測の精度も年々高まってきている。とは言え、この手の予言はそもそも成立できない類のものなのである。そこには単純な「予言のパラドクス」が生じてしまう。確実な未来に関する情報があるのだとしたら、場合によってはそれ自体が未来を変える力を有すだろう。結果、未来から得られたはずの情報はそれが生じた因果を断たれることになる。

物理法則はこうした矛盾の存在を認めない。だからもし確実な未来を予知する方法があったとしても、物理的限界に直面して実行不可能になるのではないかと思う。ただもしも実行可能であったなら、話はそれまでだ。あらゆる物理法則がそこで破綻をきたす。そして法則の破綻した世界で何が起こるかは誰にもわからない。(この矛盾でも物理法則が破綻しない方法としては、パラレルワールド(並行世界)が存在する可能性もまじめに提唱されてはいるが、果たしてどうだろうか。)


さて、話を戻そう。

我々は予言に反抗できる。だが、実際にはたとえ未来が分かっていても、抗いようのない事はいくらでもあるはずだ。我々の行為もその存在も、自力ではどうしようもない事に満ちている。本能然り。また我々は自分らしさを守り抜くためにも、自分の行動を規制しているわけだ。だから実際のところ我々の行動選択において「予言のパラドクス」を生じさせることができるのは、きわめて特殊な場合だけだろう。「このように言っておけば、あなたは反発して次のような行動に出る」と、そうした予測は高い精度で実現できる。心理学はそうしたパターンを色々と炙り出してきた。

人類はとてもではないが神秘的な存在などではない。それはもはや判明していることだ。だからもう我々の神秘性を守り抜くために、ヒトは他の動物とは違うと主張する選民思想を持ったり、超能力の存在を信じて期待を寄せたりするといった、そんなうぶな考え方はせずにおこう。

我々自身の正体として何がしかの神秘が必要であるのなら、何もかもを自力で行う事にこだわっている場合ではないだろう。

何かしら新しい道具を発明するか、人類改造計画をまじめに考える必要がある。


それを考えてみた時に、たとえばどんな方法が考えられるだろうか。

それをいくつか考えてゆく前に、そもそも我々が手に入れようとしている「自由意志」が、どういったものであるかを明確にしておく必要があるだろう。どこを目指すのかによって、その方法論も違ってくる。


人間の行動が類型的であることの一番の理由は、我々が本能に縛られた生物だからであり、その本能が生み出された背景として自然選択による進化史があり、さらにその背景として不安定な状態が存続できず安定状態を目指すというこの世界の物理法則が働いていることにある。

人類全体や生物界を見ればその単純さがさらに見えてくる。「いかに生き延びるか」という命題のもとであらゆる行為が導かれている。あらゆる行為には価値判断が付随するが、我々はその価値を自発的なものとしては一切所有していない。何のために行動しているのかと自問し続けてみればいい。我々は自身の行動の価値をただ信じているだけだ。その信念は「いかに生き延びるか」という本能によって与えられている。

そこには自主性が無い。

だから人間精神も含めた森羅万象が、物理法則に従い「安定状態を目指す」という同じベクトルを持ってしまっている。自然淘汰の結果として成立した本能に由来する「欲求」や、安定を求める精神活動の顕れである「正義」に従って動いている限りは、決してこのベクトルから抜け出せない。そのように全てが同じベクトルを持つ歴史を歩んできた我々であるからこそ世界は単調であり、現に我々が何をしていて、その未来がどこに向かうのかがほぼ見通せてしまう。まさにこれが運命だ。

そこには自由さが存在しない。


これに抗うことのできる代物でなければ、我々が自由意志を発動させて自発的に未来を切り開くことは不可能だ。どこかでベクトルを捻じ曲げる事ができなければ、我々の未来はこのレールの上に描かれる他にない。

では、どこでこのベクトルを捻じ曲げ得るか。根本的な世界の法則そのものにおいてか、もしくは人間精神の行動選択の方向付けにおいてだろうか。

実現性としては後者の方が簡単そうだ。


これについて話を進める前に、もう一点だけ明確にしておこう。

それは、自由意志を精神の機能として獲得することができたとしたら、それが一体いかなるものになるかという点についてであるが、もう薄々想像がつくのではなかろうか。

我々に自由意志や主体性が無いということが、この生命を維持する上でどれほどの役割を果たしてきたか。だとすれば、自由意志が発現すればこれまで培われてきた生存のための本能はおよそ機能しなくなるはずだろう。「安定」を目指すベクトルから外れるというのはそういうことを意味するはずだ。決して平穏無事とはいかないはずである。

そして、もしそれを我々が獲得できたとしても、それによって達成感や自己満足が得られることにも期待はできない。ましてや幸福を得られるなど望むべくもない。


自由意志を手に入れることは、もはや自分のためにすらならないということだ。


これを重々理解しておくべきだろう。



■ 新たな方向性

第一章『争いの理由』の最後に私はこう述べた。

我々が意図することは、どうしたいかという欲求に従うことではなく、どうすべきかという正義に頼ることでもなく、何ができるかという可能性の追求なのであると。

まさにそこにしか我々が運命を切り開くための「可能性」が無い。


我々の行動を直近で縛り付けているのは、「欲求」と「価値判断」のふたつだと言っていい。では、この2つの要素のベクトルを操作してやれば良いのではないかというのが1つ目のアイデアだ。

これは言葉にしてみれば簡単ではあるが、我々がこのふたつの束縛から解放された行動を取ることがどれほど難しいことか。これは心の持ちようを変えるだけではどうにもならない。それは脳の仕組みを知ることでも見えてきたはずだ。何らかの仕掛けを組み込むことが絶対に必要だ。


では、意志決定の権限を外部にあずけてみる方法ではどうか。例えばサイコロや占いのような簡単な道具を用いて、自分の行動決定をそちらにあずければ、「欲求」と「価値判断」が直接には行動を導かない。確かにそうだ。だがこの方法は少し違う。

ここに登場するのは「ランダム」という概念だ。何の方向付けも行わず、むやみやたらと何かが起きるのを待つ。だがその方法では、結果的にどうなるかはもう分かりきっている。ランダムというのは、まさに自然界において進化の過程で行われてきた方法なのである。遺伝子に生じたランダムな突然変異が繰り返されることで、有益とも無益ともつかない変化が無作為に現れ、その内のどれかが生存競争を勝ち抜いてゆく。そうやって進化を遂げてきたわけだ。

ランダムな振る舞いの結果は、確率の法則に従って定まった値に収束してゆく。ましてや自然状態でランダムな振る舞いをしてみても、「いかに安定しているか」という秤にかけられて、そこに合致するものだけが生き残る。ランダムさに頼るやり方は「学習」よりも効率の悪い、古い方法論である。それを拡張して用いるのは少し愚かだろう。これではベクトルが変わらない。

何よりもこの方法では行為者に主体性がともなわない。

(また因果関係の断絶という点で「ランダム」という現象を捉えてみても、これが本当に因果関係を断絶できているのかという点において、これは少々疑わしい。この点については別の文脈でもう一度触れる。)


さて、このアイデアは使えなかった。だがこの中にはいくつかのヒントが見え隠れする。

それは、「方向性の定まらない無作為に頼るような、ボトムアップによる方法ではなく、トップダウンの方法での明確な方向付けが必要だ」という事が、ひとつ。

そして、「何が淘汰されて何が生き残るかの選択圧をコントロールできれば、生き残った物のベクトルを変える事ができるだろう」という事だ。


そもそも、我々は意識というものが脳の中で独裁政治を行って、自分をコントロールしていると思っていたわけだ。自主性や舵取りやコントロールというものは本質的に、トップダウン方式であり独裁的なものである。だが実際には脳の中ではボトムアップ方式によって、知らぬ間に取捨選択され淘汰されて出来上がってきた結果を、我々の意識は受け取っているだけだった。

つまり、根本的なこの部分の問題に対して我々は反乱を起こす必要があるわけだ。何も意図せずにサイコロを振るのではなくて、独裁的な方法でもって少々強引にでもベクトルを捻じ曲げてやる必要がある。





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