第四章 心とは何か - 神話の終焉そして創造へ

第3部 心の未来 (3)

■ 人為的進化

我々人類は今や世界に関する多大な知識を手に入れたとはいえ、人類はいまだ自然の産物である虫ケラひとつも作り出す事はできていない。だが、望んだ物が作り出されるように方向性を誘導することならば我々にも出来る。よく知られた品種改良の技術がそれだ。

たとえば犬や猫は、「愛玩用」や「狩猟用」といった用途のために、それに見合った形になるように掛け合わされ、様々な改良種が人間の手で作られてきた。それは進化を引き起こす「選択圧」のコントロールを我々人類は行ってきたということだ。選択圧のコントロールは技術的に可能である。

ならばこの技術を用いる事で、「自由意志」を発現させることができないものかというのが、次なるアイデアだ。


ペットとしての犬猫のような文化的産物の例をとって、我々の生活は「生きるか死ぬか」だけで全てが回っているわけではないのだという指摘もあることについて、一応補足しておこう。『利己的な遺伝子』を書いたあのドーキンスまでも、我々はコンドームを発明したことで遺伝子の思惑に勝利しているというようなことを語っている。だが、こうした考え方もまた少し短絡的だ。

文化の維持発展が生存率の向上に寄与していることは疑う余地がない。なぜ我々が「感動」を求めるのか、そして得られた「感動」が何の役に立ってきたかを考えてみればいい。精神の平穏が健康をもたらす事を示すようなデータもある。精神文化の諸々をも含めた上で、遺伝や進化を捉えなければならない。進化の主体は「遺伝子」ではなくて、あくまでも「情報」にある。だからこそロボットや文明文化も進化を遂げる。文明によってそれを生み出した「遺伝子」自体もまた、時には改変され、優良な個体を残してゆける。

現状ではとてもではないが、いかに安定して維持存続できるかというゲーム、「生きるか死ぬか」というルールの範疇から抜け出せているとは言えないのである。


いかにして主体性を獲得するか。

そうした目的で何かが創造されようとした事は、未だ一度も行われてはいないはずだ。そしてそもそも、そのための環境が整っていないのだ。

自由意志は安定した存続や社会生活と親和するはずがないもの、役に立たないものである。それは現代人の目からすれば、まるきり狂人のような言動を引き起こすものであり、社会から疎外されて然るべきものだ。だからもし仮に歴史のどこかで自由意志が発現する萌芽があったとしても、その存在は消えてゆかざるを得なかっただろう。

だが幸運なことに、我々は今やその環境を整えるだけの技術力をも持っている。


アイデアを具体化する方法について述べていこう。

これは設計図を用意するわけではなくて、あくまでもそれが創造されることを誘導するだけだ。そもそも設計図が書けるほど仕組みのわかりきった物では期待薄だろう。

人工生命のプログラムのことや、遺伝的アルゴリズム、遺伝的プログラミングについては少しだけ触れたが、基本的にはこれらの名前で呼ばれている方法を使う。物が作られてゆく過程までもコントロールしたり理解したりする必要はない。重要なのは出来上がった物そのものだ。


いかなる目的のもとに、何を存在させておくかがこの方法の骨子となっている。

もはや野生に暮らす事を捨て、安穏と暮らす方法を手に入れた我々であればこそ、野生状態ならば通常は消え去るはずの物も、無理やり生かすことができる。あとは、生死のふるいわけの基準として何を設定してやるか。

これに関してとりあえずは2つ、私が考えている事がある。


(1) リバース・リベット方式

変な命名をしたが、要はリベットの行った実験方法を活用するやり方である。自由意志の成立を否定することになったリベットの実験を繰り返し行って、以前の実験結果を否定できるものが誕生するまで、自由意志を働かせていると思える生命が誕生するまで、まずは無作為に大量にモルモットを作りまくる方式だ。

だがこれで創造された生命が結局、これまでの人類と変わらぬ行動しか取れないのであれば、お粗末な話だから、次に記す方法を併せて行うことが肝要だ。


(2) アンチ・プレコグ方式

この方法では、従来のように優れたものを選出するために生き残りをかけた戦いをさせるのではなくて、我々はあらゆるものを生かしておくことに注力し続ける。舞台はバーチャルでも現実でも一応はかまわない。生み出されたもの全ての動向を計測し、データを集め続け、シミュレーションによる行動予測の精度を高め、創造物がいかにこの行動予測を裏切れるかを測定するのだ。我々はそのテストの成績の良いものだけを何代にもわたって掛け合わせ、予測を破綻させる能力を高めるように作り上げてゆく。

そうやって創造された生命は、まさに未来を切り開くためのサラブレッドとなるだろう。予測破綻のパターン解析を行い、破綻の波形を特定方向にのみ向けることが可能ともなればさらに効果が期待できる。我々は自身の意志決定をそこに託す。

(プレコグというのはSFの大家フィリップ・K・ディックによる造語で、[pre(前)cognition(認識)] 、予知能力者のことを指す。ディックへの敬意と、予言への反発という意味でこの方式とその産物をアンチ・プレコグと命名しよう。)


ひとまず私が現状で考えているのは上記2つの方法だ。

もしかしたら、出来上がった物にリバースエンジニアリングを行った成果で、我々人類にもそこに潜む仕掛けを組み込むことができるようになるかもしれない。ただそこまでしなくても、そこに己の意志を託すことで、それは暗に我々自身の自由意志の発現と言っていいのではないかと思う。

それはたとえば、今やっているような民主主義のことを考えてみればいい。我々はこれまでの歴史を通じ、自身が間違いを犯す可能性や、個々の相違があること、そしてその相違から生じる軋轢が不幸を招くことに気が付いて、そして議会政治や民主主義を採択するに至ったわけだ。それは自我を殺して、誰のものでもない意志に行為の方向性を預けることと同じだ。その架空の意志が向かう先は単なる「安定」であり、運命を辿るための道である。だが、この新たな創造物に意志を託す事はそれとはベクトルが根本的に違うだろう。それは決して「安定」には向かわない。

我々が決然たる意志で運命を否定し、不安定さの獲得に価値を見出して実現することが、世界のルールに対する我々の反抗、我々の自由意志の発現と言っていいのではないかと思う。

何にせよ我々は、それによって「所詮、人間はこんなもの」と言えなくなるような、神秘性を自らの手で実現する事になる。


ただこうした行為は、言うなれば「弱い自由意志」とでも呼んでおこうか、真にラプラスの魔物が存在しうれば、その未来を見通せてしまうような自由なのかもしれない。これを書きながら私自身、馬鹿な事をしている未来人の姿が目に浮かぶ。社会維持は機械に任せ、人類はアンチ・プレコグの指示に従ってわけのわからない行動を、自分では高尚なつもりでリラクゼーション気分で行う。そんな未来だ。

上で述べた方式が、少々うぶな考えの提案であったことは認めよう。またやはり「主体性」という問題の解釈が困難であり、人類の主体性というからにはやはり人類への組み込みが必要かもしれない。更なる応用と展開が必要だろう。


これに対して、「強い自由意志」と呼べるものが成立しうるとすれば、それには確実な「因果関係の断絶」を伴う必要がある。その実現可能性も、漠然とだが一応はある。





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