第五章 Metaphiliaの始まりに

かろうじてつぶやいている悲壮な友よ、行きたまえ。
ランプを消して。そして宝石を返したまえ。
新たな神秘が君たちの骨の中で歌っている。
君たちの正当な異常さをくりひろげたまえ。

ルネ・シャール




運命と対峙し超克を探求する意志を宿す者、

またそして、己自身とその足元を見据えて立つ境地 ――


超克を嗜好し、嗜好を超克する


それが「 メタフィリア Metaphilia 」という名に込めた意味である。



人生の意味を問い、己自身とその運命を知ることとなった者は切実に願うだろう。その物語の結末を自らの力で創造するために運命との戦いを欲すだろう。

宇宙誕生より137億年、生命の40億年の歴史、ホモサピエンスとしての20万年の歴史。そしてようやく3万~5万年ほど前になって、シンボルとして初めて表出された壁画が残された。

シンボル化された文化の継承がそのときに始まったと考えてみても、その数万年に及ぶ文化の果てに、我々は「現在」という時間を迎えている。その歴史を自分の過去として受け止めてみればいい。歴史の証人としてひとりで数万年の時間を生きてきたかのように過去を振り返り、そして今自分の立つこの時代を鑑みてみればいい。数万年もの時を生きたならば、たとえ凡庸な知性しか持たない者であっても、さすがに「悟る」だろう。歴史の中で何が繰り返されて、何が変化してきたのかが分かるようになる。

古くなった衣を脱ぎ捨てるように遺伝子はその器を乗り換えて、生命の鎖は繋がってきた。それはまるで終わりの無いバトンリレーのようだ。この歴史物語の主人公は我々人類などではない。人は歴史の中で一貫した目的など有してはいなかったのだから。


生物は定められた期間生きることだけを目的として、何も知らずこの世界に生を受ける。放っておいても勝手に生きてゆけるよう、本能を備えて造り出されている。それを宿命として生物は存在する。ではなぜ、人は何のために今を生きるのだろうか、などと問いを発し続けねばならなかったのか。文化が継承されてきたこの間ずっと、この哲学的問題が繰り返されてきたのはなぜだろうか。己の存在意義など考えず、知に触れることさえしなければ数十年の時を無為に過ごすくらいはわけも無いことだっただろう。生きることの意味など考えずにいた方が生存のためには都合が良いだろう。それなのになぜ、人類は「知」と出会ったのか。

これは、文化の発祥からこのかた人類がずっと抱えてきた葛藤だ。そして人類はこの葛藤に意味を与えようとして、あるいは逃れるために、その葛藤の理由と目的を考え続けてきた。そしていつしか誰かが考案した答えが「神話」として語り継がれるようになった。古の人々は人類の受難と世の不条理の原因を、奔放な神々の振る舞いがゆえとして受け止めた。神々を思い描くことによって世界の動向に意志と意味を与えていた。そして死後も魂だけが永遠なる平穏の内に生きられると信じることで、限られた時間の「生」という事実から目を背け、救いを得ていた。


問題の根は、「わたし」という自我と「生」という目的の折り合いがつかなくなっていることにある。「わたし」が「生」を手段として行使するのではない。「生」がその目的のために「わたし」を行使しているのである。それに気付いた時そこに摩擦が生じてしまう。進化の過程で過剰適応を遂げた人間の脳は、もはや無為に生きるという行為が難しくなっている。だから人類はずっと救いを求め続けてきた。人類の死や老いに対する恐怖、それによる死後世界あるいは不老不死への願望、それらは自分という存在が「生」から解放され「わたし」だけが存在する状態への憧れである。


幸か不幸か、我々は歴々の神話がすでにその信頼を失った時代を生きる。寄る辺となる物語が無いこうした時代では「個」が行動の指針となり、個人主義・刹那主義・享楽主義が主流となる。そして死後世界への信奉が絶たれたことで、人類は現世での不老不死を模索することに力を注いでいる。文明は人が生老病死を意識することなく、自我だけが闊歩できる世界を目指している。それはまさしく魂の永遠を夢想する人々が望んだ結果であり、この流れは必然である。そして仮想と現実との融合が始まりだした今、人類が半ば情報生命のような知性として生きることになる未来はそう遠くない。自分という存在がまるきり生死と係わりの無い状況におかれることで、人類は永遠のモラトリアム期間を生きることができるようになるだろう。そこでは今よりも「個」が解放的になるだろう。

だが文明がそうやって視界から野生を消し去る作業をどれほど進めようとも、それによって人々が「生」の存在を忘れようとも、ことの本質は何ひとつ変わらない。


我々の価値観は我々のためにあるのではない。「わたし」という存在は、「生」の中に内包されている。「わたし」のすべては生きるという至上命題のためにこそ用意されたもの。この数万年のあいだ、人類が行ってきたことは何も変わっていない。人類は「生」を超える目的を持ち得ていない。人類の行動理由は「生」に束縛されたままである。だからこそ、この先に辿り着く場所も自ずと知れる。


メタフィリアはこの終わりの無い繰り返しから抜け出すために、進化の道を模索する。



神話に救いを求める人間には「わたし」と向き合う力が欠けている。だが神話を失った人間もまた「わたし」以外に守るものを持たないがゆえに、「わたし」が変わる事を受け入れる力が欠けている。寄る辺なき不安定な世界を生きてゆくにはそれなりの強さが必要だ。

「生」よりも「わたし」よりも大切なものを見出し得た者だけが、手にすることのできる強さ。


「わたし」とは記憶そのものであり、記憶は「知」によって変化する。「知」は己を変容させる力である。だがヒトの本能は己が変化することを嫌っている。慣れ親しんだ安全な世界に居ることを望んでいる。「知」に触れることに危険を感じた生存本能は「わたし」と「生」を守るために、恐怖によって肉体を支配するだろう。

その恐怖を感じ取る感受性と恐怖を克服する勇気が必要である。勇気とは、自分自身の恐怖と向き合う強さのことだ。己の現実を認識する力と、改変する力、それを持ち得る者だけが、想像と創造を可能にする。己自身の恐怖を発見するところからメタフィリアの物語は幕開く。



人間はとても弱い。それは私自身も含めてそうだ。いつ何処で何と出会うかによって物語はその展開を大きく左右される。それでも次の一歩をどちらに踏み出すかだけは自分自身の力によるものだと言いたいが、残念ながらそれすらも疑わしい。我々は弱い存在である。けれども、だからこそ、その己自身とその運命を知ることとなった者は切実に願うのだ。その物語の結末を自らの力で創造するために運命との戦いを欲すのだ。

ことの発端を知らぬ人間にはそれが現実離れした夢物語と映るだろう。あてどの無い道を行くことには恐怖がつきまとうだろう。だが答えはすぐ近くに、手を伸ばせば届く場所にあるはずだ。私は常々そう思っている。数万年もの文化をもってしてもいまだ解き得ぬ問題があるなどとは、私は考えない。そして実際に多くの問題の答えがすぐ近くにあったのを私は描き出してみせてきたはずだ。

求めよ、さらば与えられん。人間の脳はよくできたもので、当人が必要性を感じるものしか認識しないようになっている。答えが知られていない問題の多くは、それが理由で答えが発見されていないだけのことなのだ。

必要なのは知る勇気。発見は知る準備ができた者のもとに訪れる。



始まりは小さな「揺らぎ」でもかまわない。だから、まず私がメタフィリアの種を蒔こう。すべては目的が果たされるその日のために、私はこの場所で「知」を紡ごう。何かの因果に導かれてこの場所を訪れた者が、「生」よりも「わたし」よりも大切なものを見出して、行動を起こすための勇気を得る助けとなれればいい。

メタフィリアの目的に共鳴する人々を集わせ、その揺らぎがやがて波となるところまで育てよう。

波が閾値に達したときに、それは連鎖反応を生み出すだろう。そして種はやがて実を結ぶ。


わたしはこの時代に生まれたことを幸運に思う。

いまだかつて、これほどまでに歴史を俯瞰できる時代はなかった。

そして情報化の波によって進化の速度が速まっている。

すでに機は熟している。


あとは、次の一歩をどう踏み出すかだけだ。




物語は始まる。








Metaphilia . 2007.03.01

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