2004(下半期)


9月 19日

人間が嫌いなのかとしばしば問われる。その質問にたいする私の答えはいつも同じ。
「そんなことはない。」
かといって人間が好きだというわけでもないから、人間嫌いかという質問にたいして強く否定 することはしないし、したくない。私に限らず、まあだいたい皆そんなところなのではないか。
同じ質問、同じ回答。そういうのもいいかげん退屈になってきた。へそ曲がりな私は、次に同じ 質問が繰り返されたときにはこう応えようかと考えている。

「人間嫌いの人間はそう嫌いではない。」

しかしながら「人間嫌い」とは、はたして一体何であろうか。


人間が好きかと問われれば、私の答えは明確に「NO」だ。ただそのような質問がなされる状況 は想像してみても、どこかしら軽いし、質問者が回答を得ることで何を知ろうとしているのかが 判然としない。「あなたは世界平和を望みますか?」、そんな質問とどこか通ずるものがある。
 一般的に、人間が好きな人間よりも人間が嫌いな人間の方が、「深み」を持って受け止められる。 自分大好き人間よりも、自己嫌悪にさいなまれている人間の方が、「深み」を持って受け止められる。 それは、そうした思想が培われた背景として、人生の紆余曲折、単調でないドラマがそこに存在 することが観察者の経験則から汲み取られるからだろう。人間が人間を好きなのは「あたりまえ」。 自分が自分を好きなのは「あたりまえ」のこと。それが「自己愛」であり、自己保存の本能である。
だからその前提が破綻しているかのような「人間嫌い」「自分嫌い」の人間は、どこか「あたりまえ」 でない「深み」を持った人間として受け止められる――おそらくはそういう事だろう。
そしてここには単純なパラドクスがある。それは自己愛ゆえの矛盾。
ラディカルな自然主義者などは往々にして人間嫌いを標榜し、人間が地球を汚す悪であるとか、 そういったたぐいのことを謳う。けれども彼らは自分が同様の悪であるなどとは決して思っていない。
つまるところ、人間嫌いの人間とは、人間嫌いな自分という人間が好きな人間なのではないか? だとすればその人間嫌悪の感情は、自分の外にある何かを無価値と断じることで、自分の価値を 高めようとするものであるに過ぎないだろう。
そして自己嫌悪とは、今ある自分を無価値と思い、価値ある何者かに自分がなろうとする過程だ とも言える。だとすればそれもまた自己愛の一種。そしてそこには偏狭な人間賛歌やエゴイズムと 同様の、「堅い芯」を持った価値観がみてとれる。
だから本当のところ私は、自ら「人間嫌い」を強く標榜する人間は、あまり好きではない。自分が 何物であるかも直視せず、周囲の価値観と照らし合わせて「自己嫌悪」するばかりの人間は、 あまり好きではない。それは私の嗜好の問題であり、生理的な問題であるからこれ以上に語れる ことはないし、ただそれだけの問題である。ただ私が問題にしたいのは、上述した「自己愛の矛盾」に 気付いた者は、いったい、その先どこへ辿りつくことができるのだろうか、ということだ。


人間嫌いな自分という人間の存在をも嫌う人間嫌いの人間は、一体何処に辿りつく?
自己嫌悪にさいなまれている自分をも嫌う自分嫌いの人間は、一体何処に辿りつく?


この問題は、私がこのサイトを通じて取り上げてきた問題の主軸である。かつて私は(今はもう削除 したが)こう書いたことがある。その言葉をここに繰り返そう。
「無機質であろうとする人間が到達した先に望むのは、感動や達成感といった動物的な 部分でしかなくて、そうした感情も刹那の内に情報として己の内に記憶され蓄えられ、 もう二度と同じ感動は得られない。その先に待ち構えているものは感動を失った悲しみ という感動なのか、ただ広がる虚無感なのか。」

人間には、より良いものになろうとする自己実現の本能が備わっている。けれども我々の人生は、 夢の実現によって日常の終わりを迎えることは無い。目標達成のあかつきには、次なる目標を必要 とする日常が待ち構えているだけである。人生にハッピーエンドは無い。けれども物語の終わりを 求める者、ハッピーエンドマニア、理想主義者の内面において、物語無き現実との葛藤との果てに、 自己実現の本能が歯止めを失うことになる。それは、「いま・ここ・わたし」のすべてが否定される 対象としてしか存在しえないという状況。
その嫌悪その否定その葛藤、それを運命の克服やアイデンティティーの克服といった言葉で語るのは たやすいことだ。だがその先に何があるのかが直視されることはあまりない。はたして実際問題として、 運命の克服は可能なことなのか?アイデンティティーの克服は可能なことなのか?

残念ながらそれはおそらく「不可能」だ。
過去の経緯があるからこそ世界は今このようにあり、未来を見据えたものとしての現在がある。そして 「いま・ここ・わたし」こそがアイデンティティーのすべてである。ならば此処にはただ、運命の克服を 目指す運命と、アイデンティティーの克服を目指すアイデンティティーが存在するに過ぎないというのが 真実であるのだろう。「いま・ここ・わたし」は常に、認識された時点において「いま・ここ・わたし」でしか ありえない。字義の上で考える限りにおいて、この日常が終わりを告げることは不可能である。
 だがしかしながら、だからといって、不安を抱えて生きろとか、終わり無き日常を生きろ、などと言う つもりは私には毛頭無いのである。そしてそんな事を言っている連中を私は嫌う。その私が彼らを 否定する理由はただひとつのことだ。
「そんな事をして何の意味がある?」
そしてこれは私の趣味嗜好、生理的反応の問題に過ぎないわけではない。

日常を否定した先に何があるか、日常の否定が可能なことなのか、それは実際問題として考える ならば、実行してみなければわからないことだ。それは言葉の上では明らかに不可能である。 だが現時点での私の考えでは、それは不可能であるがゆえに可能である。
そして可能か不可能かはおくとしても、ここに「意味」があることを私は事実として断言できるのだ。
それはなぜならば、すでに「事実と価値の関係について」の中で証明して見せたから。
我々にとって「未知」と「価値」は同義である。


何かをなしうる可能性があるとしたら、それを可能にするのは「人間」であり、「自分を知る者」だけだろう。
そうした意味で私は人間を好いていると言ってもいい。






7月 5日 (補:7日)

ふと映画『π』のことを思い出して考えていた。物語の結末についてだが、以前掲示板で語った解釈はどうも 的外れだったのではないだろうかと。

主人公はおそらく、216桁の数字の意味を理解した、答えを得ていたのではなかろうか。だからこそ、頭痛の 原因と思われた頭皮の異物にドリルをつきたてた・・・その行為によって彼は、自らを規定する檻であった傷み と数学世界から開放されることになる。物語の最後、主人公と親しくしていた子供がいつものように計算機を 片手に彼のもとを訪れ、暗算ごっこをもちかける。だが主人公はすでにその能力を失っており、「わからない よ」と言葉を返す・・・そう考えた方が、物語が繋がってくる。

自己の超克、そして遊ぶ子供の世界だけが物語の最後に残る・・・ なるほどこれはニーチェの思想だったと いうことか。アプローチが違えば仏教思想的な映画になっていたかもしれない。

この映画をはじめてみた時に私が上記のように考えなかったのは多分、結末が静か過ぎたからだろう。 事の重大さに比べてその影響力が小さすぎる。個人の内に話が完結してしまっている。
なんにせよ少し物足りない結末だったと思う。私は仏教もニーチェも肯定するつもりはないのだが、 さてそれでどんな結末が相応しいだろうか。




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