雑記
【 エッケ・ホモについて 】


03.8.18

人間とは何か、それ書くのであれば、これしかなかろうと思ってつけたのがこのタイトルだった。
「エッケ・ホモ」というのは、「人を見よ」という意味のラテン語で、ニーチェの著作「エッケ・ホモ」からそのまま 借用してつけた。


人間とは何か、
広く一般に出回っている言説が語るのはおよそ、人間の思考能力の高さや、感情の機微、それらが人間らし さであるとする人間賛歌、あるいは逆に人間の暴力性など、いわゆる暗黒面を取り上げて掲げるものばかり。
僕はそういう言説を目にするたびに、人間を特別視しようとする選民思想の浅はかさを思う。

連綿と続く進化史の中で、ヒトという種は何かを獲得した瞬間にヒトになったわけではない。 そしてまた、これから先に起こるであろう進化の中で、ヒトが何かを失った瞬間にヒトでなくなるわけでもない。
人か否か、その事実は単に、我々が同族と見なすか否かという純粋に神経学的な認識の問題に過ぎず、物 体を構成するパーツの組み合わせとそのバランスを認識して同族か否かを判別する、主観的な問題でしかな い。~ならば人間であり、~でなければ人間でない、0か1か、記号に合致するか否か。
そんな安直な二元論は偏狭な個々人の頭の中でしか通用しないのだ。だから知識が培われていくたびに そうした二元論は根底から否定されてゆく。
実世界はアナログで、そのどこにも境界線など無い。


それでも僕はこの論考の中でその点には触れず、あえて「人間らしさというのは 矛盾 である」と指摘した。
それはつまり矛盾を有すのが人間であり、矛盾を孕まなければ人間ではない、という二元論になる。先の 説明に当てはめればこれは厳密には正しくない。ヒトは矛盾を獲得することでヒトになったわけではない。
 僕が「エッケ・ホモ」の中でその二元論の誤りには触れずにおいたのは、人間の行為が矛盾だらけである ことを直感に訴えかける文章で語りたかったということ、そしてもうひとつは、現時点ならば「矛盾」が人間特 有のものと言える根拠も無いわけではないからである。
例えばヒト以外の霊長類や、イルカなどの海棲哺乳類は人間並みかそれ以上に大きな脳を持ち、かなり感 情の機微も有している。けれど、多分彼らの意識上に矛盾は存在しない。
それは「矛盾」というものが、認識について認識するといった、メタ認識のレベルでしか生じないから、言い換 えれば、矛盾というのは何かを記号化、言語化してさらにそれを記号に当てはめて解釈しようとした時にしか 生じないからである。
エッケ・ホモの中で指摘したように、価値追求に価値を見出すことは明らかな矛盾である。けれどそれも言葉 に置換えて考えない限り、その行為自体は別に矛盾を孕まない。それは鉄の法則のもと自然淘汰によって 形成された必然的な行為であり、それは物理上、唯そうあるだけだからである。

実世界の物理法則には一切の矛盾は存在せず、矛盾は言葉の上にのみ存在しうる。
そして我々人間は、自分の行為について考える、哲学する生物である限り、デジタル世界の住人であり、
どこかに矛盾を孕まざるを得ない。


とりあえず、今記しておこうと思ったのはそれだけだ。

この点を突詰めると、また酷い事実が明らかになりそうな気配があるが、今はまだ朧げであり、 ぼくはまだそれを語る言葉を持っていない。

いつの日にか、それも明らかになるだろう。


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