雑記
【 ParadigmLost 形而上篇(esquisse) 】




結局は同じことなのだ

デカルトの「我思う故に我在り」にみる心身二元論も
生気論も機械論も全体論も、不確定性原理も相対性理論も
唯心論も唯物論もクオリアもアフォーダンスも
一神教も多神教も汎神論も無神論も不可知論も
それら論じることの全て

哲学を行う者には究極的には同じことなのである。
突詰めてみれば1つの命題に突き当たらざるをえない。
あまりにも単純で、
あまりにも当然で、
絶望的なまでにどうしようもない事実


認識の及ばぬことを認識することはできない
我々は脳から外へ出ることはできない





我々は水槽の中の脳である


 腕も無く、足も無く、目も無く、耳も無く、妄想の中に己の声ばかり反響して木霊する。 反響する声の正体を追い、妄想世界の中に壁を見出した者のみがようやくどうにか自ら が宙空に漂う存在であることに思い至り、その考えに取り付かれたものはそれを否定し ようとして必死で足場を探しもがく。されど我ら世界に触れようにも脳から外に向けて力を 行使する手段を持たぬ。認識する主体の数だけ妄想世界は存在し、妄想は決して共有 され得ない。ひとつとして同じ物は無く万物は常に移ろい揺蕩うにもかかわらず我々は 不確実な妄想の中で朧げな表象から確実なる何かを汲み取ろうとし、それゆえに差異を 切捨て、変わらず存在する何物かがあると信じてそれを自らの妄想体系の中に造り上げ さらにはそう信じる者たちの間において妄想が共有可能であると信じる我々はその埋め ようがない隔たりを埋めることにのみ向かって邁進し続ける。知識は構造に還元されるこ とでしか培われず森羅万象アナログ世界を五感を通じて信号に置き換え記号化言語化 数量化デジタル化することでしか何物をも認識し得ないのが我ら。壁を見た者はあらゆる 手段が「私の知る限り」において無効であることを知る。なぜならば、自己とは脳によって 生み出された妄想を認識する脳によって生み出された妄想だからであり自己によって認 識された自己は自己でありながらも認識している自己には永遠に到達不可能だからで ある。
 したがってそれは螺旋を描いて無限後退し続ける。我々の知っている限りにおいてそれ は無限後退し続けてきたのである。ゆえにそこから抜け出すすべは常に未知の領域に ある。妄想世界における無限性は経験則でしかあり得ずそれゆえ螺旋の両極に可能性 は残される。それゆえ我々はその可能性にしがみつく。したがって未知が既知のものと なった時、我々はどれほどに後退したかを目の当たりにし、知識が既知の限界と不可能 性を明らかにする。「やはりここにも無かったか」と。


それゆえ我々が希望を追い求める行為は絶望を近づける行為に他ならない。
されど誰一人として未知を超克すること叶わぬゆえに、誰一人として希望を失わない。

ならば我々が問題にしていたのはいつだって同じことであろう。
「宇宙の果てはどうなっているのか」と。


限りなく自由なる妄想の自由さに気付いた妄想の囚人は限りなく不自由である。


すなわち、
ある妄想体系Pにおいて「私」が成立するならば、
同時に 「私=X」「私-私=私」も成立する。
つまりは
「無限+Ⅹ=無限-Ⅹ=無限×Ⅹ=無限÷Ⅹ=無限」
なり。



 形而上学講義これにて終了。


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