メタフィリア ラボラトリー
matrix
(3) 心身の因果
「我思う故に我在り(コギト・エルゴ・スム)」


仮想現実であるコンストラクトの中、高層ビルから墜落したネオは現実の血が流れることに驚き語る。
 ネオ「現実じゃないはずだ」 モーフィアス「心が現実にする」
 ネオ「マトリックスの中で死ねば、ここで死ぬ?」 モーフィアス「肉体は心無しでは生きられない」
『マトリックス』における心身問題の取り扱い方はじつに精妙である。 『マトリックス』ほどに心身を意識させることに成功している作品は多くない。 血が出るの出ないので騒いでいる映画より、現実の死体を映すドキュメンタリーより、 こうした描写のほうが格段に明快に「心身」の問題を考えさせる。 この会話から汲み取れるのは心身二元論かそれとも一元論か。そして我々の精神とは一体何か。


冒頭に掲げているのは、ルネ・デカルト (1596~1650)が打ち立てた有名な言葉である。
―― あらゆる概念を疑ってみても、今ここに疑っている主体が存在する事だけは疑いようが無い ――
科学万能主義と機械論的自然観の中にあってデカルトは、この自説に基づいて神と魂の居場所を確保しよう と試みた。それから3世紀半、皮肉にもデカルトによって基礎が固められた構造還元の手法によって様々な事 象は唯物的に記述され、神は次第に居場所を追いやられていった。そして原因と結果の法則ですべてが語 り尽されんとする世界の中で、我々の魂もが居場所を追いやられ、そして我々は否が応にも不安を募らせて いる。メロビンジアンの台詞はまさにそこを突く。
 「不変の真実がある。全てを支配する唯一絶対の真実がね。――
 因果関係だ。」

 「因果関係、我々は永遠にその奴隷なのだよ。」 「選択は幻想だ。」
我思う故に我あり――デカルトのこの言葉は、現代の我々にとって何の慰めにもならない。その言葉は思考 している主体が存在することを保証するかもしれないが、主体性があることの保証にはならない。

果たして我々の精神は自由か否か。




「汝自身を知れ」


 かつて哲学者のカント(1724~1804)は自由意思の問題について考え、 理性によって欲望を抑制していることこそが、人間の自由意思の発現であると結論付けた。 欲望は野蛮で自由のない本能の表れであると。だが残念ながら、カントの考え通りにそれで我々の自由が保証されるわけではない。 欲望を抑制するのが理性でありそれが自由だと言うのなら、その理性が利害判断であることくらい自問すればすぐにわかる。 だが理論は利害を保証しない。理性は我々の根源的な行動理由にはならない(それができると思うなら試して御覧なさい)。 マウスは言っていたはずだ。「衝動を否定するのは、人間らしさを否定するのと同じことだ」と。
我々から欲望を取り去れば何も残らない。我々を突き動かしているのは欲望であり、それ以外の何物でもない。 さて、それで自由意思の問題だが――そもそも我々にとっての「自由」とは、己の判断によって何かを選択する、 その意思が何ものにも邪魔されずに遂行できることである。つまり自由か否かという問題の要点は 「選択の余地」が有るか否かということである。 そう、「問題は選択だ」
では、例えば目の前に自分の大好物が置かれていたとして、我々は自由意思によってスイッチを切り替えるように、 それを嫌いになることができるだろうか? それが選択の自由ということなのでは?
君の言葉は正しい。問題は選択だ。だが我々は君がどうするかをすでに承知している、違うかね?
メロビンジアンの特製ケーキを食べた女性は、あの場面で席を立たずにいられたか。
ザイオンの洞窟で開かれた演説において、聴衆はモーフィアスの言葉に昂揚せずにいられたか。


 人は行動選択の決定を行うのが意思であり、そこに選択の自由があると考える。だが、意思は行動の理由ではない。 意思は手段であって目的ではない。そしてそもそも行動の選択肢を用意するのは欲望であるが、 それも行動の衝動ではあっても理由ではない。問題はつまり、欲望や意思を実行することで我々が何をしたいかである。 好きという感情、嫌いという感情、そして理性によるその感情の抑制、その利害判断の理由・目的は何なのか。
甘い果実を美味であると感じるその「甘い」や「美味しい」という感情にも理由がある。 それは、よく熟れた果実は栄養価が高くそれを好んで摂取すれば生存に有利になるからだ 。栄養価の高い食物を好んで摂取する生物の方が生きのびる確率が高かった、 それゆえ「甘い」「美味」という肯定的な利害判断の感覚を備えた生物として我々が今ここにいる。 目的は生存。それが生物学的な利害判断の存在理由と目的である。
進化論にもとづく説明が気に食わないのならこれは無視してもいい。だが問題の要点はここなのだ。
果たして我々は自分の利害判断を自由にコントロールできているか? 
そしてそもそも何のための利害判断か? 利益が利益であり害悪が害悪である理由と目的は何か?
あなたが今此処でこの文章を読んでいる、その利害判断の理由は何か?それを知りコントロールできているか? それが選択の自由ということだ。メロビンジアンは言っていたはずだ。 「あるのは力を持つ者と持たぬ者だけだ。」 「理由こそが力の源。欠けば無力だ。君達は理由を理解せず力も持たずここに来た。」
ただ残念ながら、理由を知ることが力となるかどうか、それは私の保証の限りでは無い。 サイファーが言うように「無知は至福」ということもある。だがこの問題を克服できない限り我々の自由は保証されえないだろう。 その場合、真実はスミスが語っていた通りのものとなる。
 「我々は自由だからここに居るのではない。不自由だからここに居る。理由からは逃れられん。 目的も否定できん。我々は目的無しには存在し得ないからだ。目的が我々を生み出した。」
理由と目的、それが本当に全てなのかどうかは考えねばならぬことだろう。我々に精神が宿っていること、 我々の精神が行う選択判断、それらがすべて理由と目的によって説明されるのか否か。


これは我々にとって重大な問題である。だが何故か大抵の人間はそうは考えていないようにみえる。
それは自分の感情・思考・判断、それらの理由・目的を考えたくないからであろう。 現状を維持したい者にとって、自分自身について考えることは基本的に危険な行為だからである。 思索は己の現実を変容させる。それは平穏を脅かす危険な行為なのである。 ラリー・ウォシャウスキーは語っている。
『マトリックス』で言いたかったのは、吟味もしない人生を送るのは実に簡単だと言うことだ。
 外の世界で何が起きているのか、気付かずにいるのは実に簡単だと言うことだ。
現状を肯定するか否定するか、それは大抵の場合は価値観の違いに過ぎない。 それゆえ私は大抵の問題ならば考えることの価値を他人に説くつもりはない。だがこの問題だけは別だ。

もし我々の精神に選択の自由が存在しないのであれば、
我々が今生きている意味は何か。


これはそういう問題である。

03.12.17



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