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【 本能とアート 】

料理はアートか否か。人が食事するのは食欲のせいで、栄養補給の為。そういう需要が あるかどうかで、料理とアートは一線を画す。どんなにまずい料理でも空腹なら文句言わ ずに食うけれど、アートにはそういう需要がないことが最低条件。

でも現代なら食うに困る奴なんてほとんどいないから、そういう世界では料理もアートたり 得るのだけれど、やはり料理というものを一概にアートの範疇に入れて欲しくない。
例えば、おいしいけれど値が張るとか、必要以上に手のこんだ料理。そういうのは一応 アートだと思うけど、まだ微妙。どんな豪勢な料理でも、毎日食卓に並んで日常に溶け込 んでしまうと、アートじゃない。そこには無駄が無い。

だから料理だけど観賞用で食べられないって所まで行けば完璧なアートだ。

結局アートってのは富裕層の物で、無駄の代名詞みたいな物。古代の貴族が食べた物 を吐き出してまで食事を続けたのは、料理をアートとして愛でる為だった。そこには無駄 という不必要性がある。彼らがそれを楽しんでいたかどうか、そこは問題ではない。
彼らは食事から需要を切り捨てようとしたのだ。
料理がアートで無ければそれは生きる為の餌でしかないから。

僕は、人間らしさというのは自分が一介の生物に過ぎないという事実を否定することだと 考える。生老病死、摂食、排泄。そういう生物の必然を否定しようとすること。不老不死 願望なんかもそう。アートの本質もそこに帰結する。生活を離れる精神的ゆとり。
そういう余裕の無い奴は虫けらと一緒だろう。虫にはそういう余剰知能がない。
けれどまあ、哺乳類に備わっている遊び心という物も、本能的なことではあるのだろう。
それはつまり、不必要性を求める必要性。


・・・ なかなか残酷なパラドックスだ。

'02.3.21
'03.改稿

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