> 論考
【 エッケ・ホモ 】


ヒトが生きていることに意味は無い。理由も無い。
それゆえヒトはそれを求める。自分が持ち合わせていないが故に、それを欲する。
欲望とはすべからくそういうものである。

欲するという行為は、それを手に入れた後の状態を目的とする手段である。
目的が存在すること、それゆえその行為には価値がある。
価値とは理由や意味が存在することだからである。
つまり価値とは何かしら役に立つものに与えられるものなのである。


したがって、目的には価値が存在しない。目的自体はまるきり役立たずである。 もし目的に価値が存在するのであれば、それはさらに別の目的のための手段として 掲げられた目的なのである。達成感の後に何が残るかそれを考えてみればよい。
そして人間はなぜそれを求めていたかを考えるのである。



ヒトは自分が生きていることに価値を見出すために生きている。
価値を手に入れること、それは目的であるがゆえにそれ自体に価値は無い。
少し考えてみれば判る。これは矛盾である。


本当は何も矛盾するようなことでは無いのだが、 ヒトは自分が生きていることに理由を与えようとするから矛盾してしまうのである。
それはつまり、生命に理由など存在しないからである。
生命にとって生きるということ以上の目的が存在しないからである。


生物が生きようとする欲求を持つのは単なる成り行きである。
より長く生きた者、より安定した構造を持った者だけが生き延びてきた。
安定したものは残り不安定なものは消え去る。
これが淘汰原理であり、物理世界の根本原理である。
ヒトがより良く生きようとすることも、他人より秀でようとすることも、
単なる自然淘汰の結果に過ぎない。


そこに目的は無い。唯そう在るだけである。


人間は踊らされているだけである。


価値のある目的なんてものは存在しないが、ヒトはそれを求めるように作られている。
無価値な目標を掲げ、そこへ至る道程に価値を見出す。
ヒトが求めているのはその価値である。
欲望を満たすことだけである。それは己の意志ではない。
生物が生き残りのために画策する手段でしかない。


生きるというのはそういうことである。


いかなる理論も己が今、生きているという事実に価値を与えることは出来ないのである。 生物なんてものは放って置けば、勝手に生きているのであり、 電池が切れるまで命令に従って動き続ける機械と同じである。


死ぬよりも生きる方が簡単である。



では、生を儚み自ら命を絶つか? 
それは浅はかな虚無思想である。生も、死も、同等に無価値である。それを知れ。
享楽に溺れるもまた無価値である。欲望を満たそうとするのは等しく生存本能である。
運命に翻弄された行動である。
ただ、人間というものは少なからず運命に抗おうとするように作られているものである。
人間の運命は、自ら運命に抗うことを強要するのである。
そして人間は抗うことを強要する運命そのものに抗おうとする。


もはや哀れである。


もしも、人間とその他の生物を隔てる何かがあるならば、答えはひとつしかない。


人間らしさとは「矛盾」である。



'02.9.11