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【 哲学は踊る 】


「現代は何事にも確信がもてない時代である。我々は近年、自信満々だった 科学的青年期から哲学的な成熟期へと成長してきたようだ。いまや自分達 の無知を認められるようになっただけではなく、永遠に知りえない領域が存 在すると言う事実も受け入れようとしている。」
ライアル・ワトソン『生命潮流』冒頭より

人類の叡知を結集した最先端の宇宙論も、事象の地平なる理解及ばぬ存在を想定せざるを得ず、 全ての事象を解き明かさんとした量子論も 不確定性原理 を前に 「永遠に知りえない領域が存在するという事実」を受け入れざるを得なくなった。
永遠に続く過渡期の中で、今我々は少しだけ意味ある変革期に足を置いているのかもしれない。
過去も現在も人類は自然を征服し、自らの理解の範疇に置くことで恐怖を克服しようとしてきた。 それゆえ人は現象に因果を見出しては、それを言葉によって定義する。 自然を記号化することで理解し知識を培ってきたのだ。 だが、少しばかり科学的探究を離れて哲学的思弁に足を踏み入れた者は、歩みを止めて考える。
  一体私は何を知り、何を知らぬのだろうか、物事を理解したつもりではいたが、
 それが真理かどうか定かではないという事だけが今のところ確実な真理だな、と。
これは哲学的ジレンマだ。 ゲーデル不完全性定理 (※1)という形でそれを明確に示した。ただ残念なことに明確ではあったが明快ではなかった為に、一般にはあまり浸透していないようである。それゆえに私が明快に説明してみようと思う。つまりこういう事だ。
『神のみぞ知ると、どうやって知るのか?』
ひとつの パラドックス である。


 古くからパラドクス問題は人間の思考能力をためす試金石として度々用いられてきた。中でも ツェノンの逆理 は秀逸であり有名な存在である。  このツェノンの逆理がパラドクスとして秀逸である理由は、それが現象の中に 「無限」 を見出しているからであるのだが、 なぜ「無限」がパラドクスを生じさせるのか。それは人間が無限を取り扱うことが出来ないからである。 フォンノイマン型コンピューターも フォンノイマン 氏も 無限を取り扱うことが出来ないのだ。人間はアナログ量を取り扱うことが出来ない。
そこにデジタル思考の限界がある。

人間は AD変換 (アナログ→デジタル)によって思考を可能とする。 そしてAD変換は 不可逆 である。 デジタルから元のアナログを再現することは出来ない。 アナログ世界は記号の集合ではないのだからそれは当然のこと。 それでも無理にデジタルでアナログを表記しようとした場合、そこに「無限」が生じる。 (※2)
ツェノン はそれを言っている。 ソクラテス もそれを言っていた。 科学はそれを再び浮き彫りにしただけである。過去も今も人の限界点は変わらないのだ。 それゆえ皆同じ事に気付いてそれを自分の言葉で表現する。

 ただ、こうしたパラドクスは実際のところ何ひとつ実用的でない、形而上学的な言葉遊び に過ぎない。ツェノンの逆理や不完全性定理の示さんとせん事を念頭においたところで、
結局どこかで割りきって二元的に考えなければ何ひとつ問題を解決できないのが人間 であり、現象を記号化することでしか思考出来ないのが人間だからである。 言葉は現実世界を表すものでは無い。言葉は記号を表すものでしかないのだ。 人の意識はAD変換によってアナログを扱っているのではなく、AD変換されたデジタルのみを扱っているのである。 言葉と記号は等価である。それゆえに言葉の上でなされる議論は同語反復でしかない のである。それはまるで哲学の自家中毒とでも形容したくなるような事実。
  ウィトゲンシュタイン はそれに気が付いた。 彼もまた人間の限界に気付いたのである。そして彼はそれを嘆いた。ウィトゲンシュタインは 「言語ゲーム」 なんて堅苦しいことを言っていたのではない。 「言葉遊び」 に過ぎないと言って嘆いていたのだ。

 まあそれでも、そこに止まって嘆くだけなら能が無い。 少しくらい割り切ってでも言葉を定義することでしか知識は培われないものだ。 そしてまた言葉の定義から外れるものが生まれ出るが仕方が無い。 これは量子化誤差というもので、デジタル変換の宿命なのだ。誤差が生じないようにするならば、言葉は必然的に漠然としたものにならざるを得ない。
それはまるで占い師の言葉のように曖昧で、実用性の無い言葉になってしまう。
ハイゼンベルクいわく 「いかに明快に見える言葉や概念でも、その適用範囲は限られている」 のである。

 哲学は知識を培い続けることで哲学たりえる。それは哲学ごっこなどではなくて、目的のある行為であるはずなのだが、いまだ誰もその目的地を知らない。そして決してそこへは到達しない。それだけは既に確かなことである。なぜならデジタルを積み重ねても決してアナログにはならないからである。

これもまた大いなるパラドクスだ。そしてまた人々はジレンマに陥るのだ。

所詮言葉遊び、哲学ごっこに過ぎず、人間はそうやって死ぬまでヒマ潰しをしているだけなのかも知れない。 あまり肯定したくはないが、何かを憂えずにはいられない。

哲学は踊る。 されど、進まず。




※1 『不完全性定理』
「公理体系Pが無矛盾であれば、ある論理式Aで、
AもAの否定も証明不可能なモノが存在する。即ち決定不可能である。」

「Pが無矛盾であれば、Pの無矛盾の証明の有限的な方法を与えることは出来ない。」
要はソクラテスの 『無知の知』 である。

※2 AD変換と無限
ツェノンの逆理の他には、例えば『 1÷0=? 』という数式も同じ無限が生じる例。
これに類する話を、
『円環は閉じず』 の中で少し詳しく述べている。


'02.8.17

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