> 論考
【 円環は閉じず 】



僕の目的が何なのか、それを具体的に書き記す必要性があるかどうかわからないのだが、 今回それについて触れておく。分かっていないということ自体がその必要性でもあるかと思う。
後々になって読み返す価値があるか、公然とさらすに耐えうるか、それを探るのもまたひとつの目的だからである。


まず、僕がこうして文章を綴っている一番の目的は、自分の思考を言語化する行為そのものにある。それは、なかば閃きのようにして得た答えの論理的整合性をあとから検証するためで ある。僕は元来、直感的に理屈っぽいことを言う人間であるから、思い返してみたときに論理展開の不鮮明さを感じることがしばしばあって、それゆえ僕は常々こうした作業をこなしておかないと、独りで変なところへ走りそうで不安になってしまうのだ。
答えを手に入れたと思っても、それを検証しないようでは話にならない。悟ったなどと一人合点して達観しているのなら、何も知らないのと変わりはしないから。閃きとは、いつも圧倒的なリアリティを伴うものではあるけれど、リアリティと整合性に明白な関連性はみられない。おそらく、 人間の脳にはリアリティを与える機構が存在するはずである。
ともかく、僕は自分の哲学に対して懐疑的であり続けねば先は無いことを経験的に知ってい る。時代の制約に縛られ、思考を曇らせていた先人達の前轍を踏むことだけは避けねばなら ない。答えはたぶん、自らのリアリティを払拭した先にあるものなのだ。
 かつてニーチェは 「事実など無い、ただ解釈のみが存在する」 ということを看破した。
これがまさにその通りだと考えるのが僕の解釈だ。だが明らかに、僕という人間は事実を手に 入れることを目的として行動しているのもまた事実(いや、解釈ということか)。だからこそ、僕はこう して筆をとっている。 これは矛盾である。自己矛盾である。この矛盾こそが今の僕そのもので あり、そして僕にとっての大きな壁なのである。
だから僕はひとつのコンセプトのもとにいくつかの行動を起こすことにした。その1つめは、 「変わらぬこと、それが現実だ。いかに抗おうともこれを越えることは出来ない」
という僕の認識、そしてそれに論拠を与えているこの世界の構造を明示することだった。
 僕はこの結論を導き出すことが出来る論拠をいくつか持っている。だが、それらを日々自明 のものとして胸中に抱えていられるほど僕は強くない。逆にいえば、それらを全面的に肯定す るほど僕は愚かではない。だから僕自身ことあるごとに記述の論理的欠落を探してきた。もし あれらが原理と呼べるほど揺ぎ無いものであるならば、これこそ絶望というに相応しいもので あるだろう。だが、絶望とは確信の上に成立するものなのである。現代の知識はもはや絶望を すら許容しない。全ての確信は否定されるのである。

「知ってしまった者はもはやどのような手段を用いても確信を得ることはできない」
これが、現時点で知識の到達した限界なのである。哲学をしない人間にとってこれは、
少々逆 説的に聞こえるかもしれない。「知ることは確信を深める行為ではないのか」と。
だが考えても みたまえ、人間にとって「知る」と「信じる」は同義語なのである。それが判ればあと少し。 もう一 歩踏み込んで先の言葉が理解できるはずである。これは少々逆説的な話などではないと理解 できるはずである。
そしてかなり逆説的な話なのだと気付くだろう。

そして、そこからもう一歩踏み込めたなら、次なる命題が問題となってくる。

『いかなる言説も、自己言及によってパラドックスを生じ、回避不可能なトートロジー (同語反復)を露見させる。それゆえ全ての言説は究極的には証明も否定もされえない』
これは果たして真か偽か?
それはつまり、「事実など無い。ただ解釈のみが存在する。」というニーチェの言葉、あるいは、 「既知の枠内で証明自体を完全に証明することは不可能である」ことを謳った不完全性定理などのように、 言っていることは確実に正しいと思えるが、命題の内容そのものを命題に当てはめて考えた時、断じて 「確実に正しい」などとは口が裂けても言えなくなるそんな命題は、 結局のところ「木は植物である」とか、「善い行いをすることは良いことである」といったような言説 となんら違いは無いのであって、どのような知識、どのような論理をもってしても、ともに否定も 肯定もされ得ないのではなかろうか?
ということである。
これは単なるパズル遊びではない。
なぜならば、我々の認識はすべて、神経をはしる電気信号によってもたらされるものであり、 「0」か「1」か、記号に合致するか否かに基づく我々の論法は、そのデジタル変換の宿命によって確実に二元論とならざるを得ず、それゆえ全ての問題に対して根本的にトートロジーを孕まざるを得ない構造を有しているからである。
それは定義の定義、意味の意味について考えていけば確実に明らかになる。

 例えば、数字の「1」とは何であるかを考えてみると、これを「1」という概念を用いずに説明す ることは不可能であることが明らかである。
 これと同じことは『卵が先か鶏が先か』という問題についても言える。一部には進化論によっ てこの問題に解を与える言説もあるが、根本的問題として「ニワトリとは何か?」という点を考えてみると、我々に鶏を鶏であると認識させている特徴、遺伝形質の獲得は先天的とも後天的とも考えられるのであり、また「特徴」と「鶏」を結びつけているのは所詮主観に過ぎないのであって、この難解なパラドックスはそもそも不成立だったということになる。


このように、すべての問題は、我々の認識自体を問題にした時点でトートロジーに直面せざる を得ない構造を有しているのである。それゆえ、先にあげた命題が真だとすれば、もはや人間の知性はここで閉ざされることが判明するだろう。
だが、この命題もまた確実に立証不可能なはずであり、これも含めた上で考えてみても、ここ が現時点での、そしておそらくは未来永劫に渡る知識の限界であり、デジタルの限界であり、人間の限界なのである。

そして僕は考える。
いったい何をすればここを超えることができるだろうかと・・・
これが最後に残された問題であり、それを超克するのが僕の究極の目的である。
今のところ僕が知る限り、この壁を越えた者はいない。そしておそらく人間にとってやってみる 価値のある問題はここにしか残されない。
あるいはそれを拒むのであれば、知性を放棄し確信に満ちた道を歩むしかない。
そちらを選ぶなら話は簡単だ。自らが不毛な螺旋の渦中に身を置いていることにも気付かずに振り回されるだけである。ただし、そのどちらにしても不毛であることに変わりは無いのだから、価値観の違いと割り切って肉体に選択権を委ねるのも手ではあろう。
だが、現実を見据えられぬのであれば何も語らぬ方がいい。
自分の立っている足元も見えていない人間が、絶望や希望を語るのはまだ早い。

さあ、

果たしてここまでで述べてきた命題は真か偽か
僕は依然として確信を得られない


「もはや確信は死んだのだ」

このパラドクスから、哲学が始まる。